2021年

11月

30日

見上げた空の美しさ

2泊のホテルでの休養を終え、玄関まで支配人に見送られ、偶然に見上げた

空の何と爽やかで、美しく、支配人と二人で見とれていた。

 

その時、澄み切った青空に、銀翼を輝かせた飛行機が機首を上げ、目的地に向かっている。

 

思わず、私は、「嬉しい、飛行機が見えた。きっと、今日から良い日になりそう」と、自分でも、数日、消えてしまった笑顔を取り戻している。

 

支配人から「すっかり、休養できたようにお見受けして、私も安心しました。お疲れになったら、どうぞ、お泊りにいらしてくださいね」と。

 

ホテルと自宅との距離は、徒歩で10分ほどの近くで、僅か、2泊だったが

リセットできたと、足取りも軽くなっている。

 

オンとオフの切り替え方が、蓄積疲労で、身動きが取れない状況にあったと、早く、主治医のアドバイスを聞き入れていたらと、反省しきり。

 

しかし、今年の後半の様々なストレスには、必ず、後に「嗚呼、そうだったのか」と、私に、「良薬は口に苦し」と喩にもあるように「良薬」と、想えるほどの平常心に戻った。

 

宿泊前にというか、自宅を留守にする際には一歩外に出れば、何が起こるかは分からないので、部屋の掃除、洗濯を済ませ、目的地に出かけるのが常であり、今回も、誰もいない片付いた部屋に「只今」と声をかけた。

 

嘗て、苦しみを抱えている人に、「時が解決するわよ」と、安易な言葉は

控えるというか、禁じられていると学んだが、今の私には「時」の重さの手応えを感じている。

 

如何に私にとっては「休養」が必要で、その「効果」に自ら気づいたのは

この年齢になって、恥ずかしいが、一回り成長したと想っている。

 

明日から、2021年最後の「師走」がスタートするが、生来のせっかちさで

どうやら、今日で、一年の締めくくりの日になったようだ。

2021年

11月

29日

安らぎを求めて

ホテルの部屋で、私はのんびりと時を過ごすことに、戸惑っている自分に気づいた。

 

どうすれば、主治医のアドバイスに適うのか、何をすればよいのか、暫く

思いつかず、先ず、テレビのスイッチを入れた。

 

凡そ、3年前と記憶しているが、私はテレビを廃棄したのである。

 

その後は、ラジオと、マンションの各部屋に設置されている有線放送で、

音楽を聞いている生活を過ごしている。

 

ラジオを通して活躍している人の声から、テレビの映像で見る容姿に想像との違いが、新鮮で、ついつい見入っていた。

 

そうか、テレビを見ている間、画面に気を取られ、ラジオと違って、頭が

他のことまで働いていない。

 

視覚と聴覚の違いがあるのか、テレビから遠ざかっていた私は、今、視覚からの情報に興味津々になっている。

 

新聞のテレビ番組から、昔のように番組をチョイスしているではないか。

改めて、先ずは一つ、頭を空っぽにして、ぼんやりしなさいとのアドバイスの意味をキャッチした。

 

ゆっくりバスタブに身を沈めながら、自宅と違い、入浴後、換気扇と共に風呂場の水滴をふき取る作業もしなくて済む。

 

日頃の日常生活から、一つ一つ、解放されている。

つまり、「ねばならない」という使命感もないのである。

 

ガサガサに渇き切った私の心も体も、砂漠で「オアシス」に出会ったような、潤いを感じ始めている。

 

何時しか、強張った全身の力が抜け、心地良い眠りに誘われていく自分がいた。

2021年

11月

28日

ホテルで休養

昨日に続き、今年の手帳と、新しい手帳への乗り換えで、突合せをしているうちに、昨年は9月の脳神経外科の12時間に及ぶ手術に代表される。

 

お陰様で、リハビリを合わせて、2週間で、退院後、不思議に体力は衰えず、逆に、執刀医の先生に、「術後の方が、パワーが出て、逆に元気が

出ましたが、何か、仕掛けをしたのですか」なんて、茶目っ気の質問をするほど、絶好調になり、9月中旬から、即、身軽に動き回ることが出来た。

 

昨年は身体的治療だったが、今年は、新型コロナウイルスワクチン接種を除き、6月ごろから、自宅の電気関係、水回り等々が疲労し始め、彼これ

3か月ほど、修復にかかり、最後に、パソコンがダウンしてしまった。

 

結果が出るまでの待機時間が長く、結果的には修復不能で、新しい相棒のパソコンを購入する。

 

常に、待機時間との闘いが続き、今年はメンタル的にシグナルが表出し始め、主治医の先生からも、受診の都度、「休養が薬」と。

 

また、ストレスの解消に、「ホテルで、数日、何も考えないで、休養できないかしら」とも。

 

かなりの長期の蓄積疲労のために、すっかり体力、免疫力が低下しているとの検査結果に、私自身も体力が衰えているのが分かる。

 

そして、来年に希望をもって、新しい手帳と向き合っているうちに、先日のメールの問題が、まだ、精神的にどこかで蠢いている。

 

これ以上、心身ともに頑張れないと、限界を感じた私は、昨年10日間ほど利用したホテルに向かっていた。

 

チェックインした私は、セカンドハウスのような、懐かしさと、安らぎを覚えた。

2021年

11月

27日

新しい手帳に期待

今朝のガラス戸を流れ落ちる結露に、そろそろ、来年の手帳に予定を記入する季節を感じた。

昨日までの重苦しい気持ちを振り切るためにも、微かに、新しい紙特有の匂いのする手帳を取り出した。

 

2022年は、「笑顔」に繋がる予定が少しでも多く埋まるといいなあと、願いながら。

 

今年はまだ、一か月強を残しているが、何となく心の隅に、来年に期待している気持ちの表れが正直に出ていると、感じながら。

 

先日「空白恐怖症」について、メディアが取り上げていた。

思わず、まだ、「空白恐怖症」という言葉は生きているというか、使われているとは、驚いた。

 

既に「死語」になったとばかり思いこんでいた私は、懐かしさを覚えた。

 

友人の一人で、私の何倍も活躍している彼女の手帳は、予定がびっしりで

自分でも分からなくなるほどの書き込みに、生き生きとしていた。

 

定年を迎えた彼女は、その実力を買われ、関連企業で、新しいスタートを

切ったのである。

 

暫くして、その彼女から、ちょっと、会って話をしたいとの連絡が入り、

まだ、肉声が優先の時代で、電話口の声に変化を感じた私は、不安を覚えながら、約束のホテルのロビーに向かった。

 

表情からも、嘗ての彼女とは違っていた。

やがて、彼女は私に、手帳を取りだして、「ちょっと、見て、見て。今の私の手帳は、空白ばかりで、落ち着かなくて、とても不安になるの」

 

正に、彼女は「空白恐怖症」に陥ってしまったのである。

 

実は、私も76歳という年齢とコロナ禍もあり、「毎日が日曜日」になった

ために、手帳が嘗てのように予定の書き込みが少なく成った。

 

新しい手帳には、診察日の予定の書き込みが一番多く、「空白」が目立つ現実を感じた。

 

またまた、「年寄りの冷や水」と言われそうだが、手帳の空白を如何に、

空白にしないように、努力する楽しみを見つけるという考え方もありでは

ないだろうか。

そう、ありたいと想っている。

2021年

11月

26日

心の動揺が続く

晩秋からの初冬、私の曇りがちな想いに反して連日、快晴が続いている。

 

残念ながら、昨日の余韻から、私の心は「快晴」には程遠い。

 

なぜ、なぜという想いを繰り返すばかりである。

相手の事情が分かれば、素直に納得、受け入れる気持ちでいたが、未だに

連絡は受け取っていない。

 

信じていたお人柄に、何か抜きさしならない事情があっての事と、善意に

推察するように努めている。

 

想像を絶する事情が生じたと、自分の気持ちをコントロールしている。

 

相手を信じている私は、私の自惚れだったと、自分に言い聞かせながら、面倒な細かい事務作業に取り込むことで、気を紛わせ続けた。

 

夜の帳とともに、相手を信じようと善意に気持ちをリセットするが、時々「何故」という想いがぶり返してくる。

 

嘗て、病院ボランティアで、90歳に近い患者様から、突然、家族からの連絡が途絶えたと、私に、「子供たちに迷惑をかけ続けたから、私の存在が重荷になってきたのでしょうか」と、涙を流された。

 

自分を厳しく責め続ける患者様に、私は言葉が見つからず、そっと、背中をさすって差し上げるしかできなかった経験をなぜか、思い出した。

 

来年3月に、77歳になる私は、今後、歳を重ねるたびに、知人や友人が

少なく成っていくのは、致し方ないが、できる限り、明るく、前向きに

人様に迷惑をかけないようにと、自分を鼓舞しようと想っている。

 

暫くは、「心」の動揺が続くかもしれないが、考えようによっては、良い

経験をしたと考えてもいる。

2021年

11月

25日

心に寒波襲来

暫くご無沙汰をしている人に、メールを送信するも、即座に「メールが届きませんでした」という返事が返ってくる。

 

最近まで、送信できたのに、信じられない私は、理由が見当たらず、途方に暮れてしまったが、気を取り直して、まだ、新しく買い替えて、一か月弱である。

 

一刻も解決したいという想いに、私は購入先の量販店のPCドクターに助けを求め、今日も午前中はまだ、風も冷たく、日陰を避けていても、寒い。

 

でも、急いで解決したとの想いが、頭中を駆け巡りながら。

 

購入時から、とても丁寧に応対してくれる店員さんが、およそ、一時間近く付き合ってくれても、解決のめどが立たず、段々、気持ちが落ち込んで

くるのが分かる。

 

その間、多くの来客があるにも関わらず、私の傍らで付き合ってくれていたのが、大きな支えになっていた。

 

その彼が、もう一人の店員さんを連れてきて、新しい操作方法を教えてくれたその方法で解決できると喜んだのだが、「お問い合わせ」の待機時間の何と長いことか。

 

気が動転している私は、肉声でのナビを希望したせいもあり、約小一時間

待っても、繋がらず、パソコン自体の残り時間も警告が出るし、携帯の方も残り時間が不安になり、諦めて、自宅に帰ることにした。

 

午後2時過ぎから、気を取り直して、再度、メールを送信するも、同じく「NO」の返事しか返ってこない。

 

もう、精神的な限界に達しているが、どうしても相手とのメールを回復しなければ納得できない私は、先ほどの「お問い合わせ」に、トライした。

 

ほぼ、諦め状態だったが、凡そ、15分ほどで繋がり、担当者は落ち着いて

私の事情に耳を傾けて、画面での共有作業の結果、原因は相手側にあったのである。

 

事情が分かったが、私の心は言葉には言い表せないほどの冷たい隙間風と

自惚れていた自分を恥ずかしくも想い、複雑な気持ちになった。

2021年

11月

24日

布マスク

今朝、ドアを開けると、一気に冷たい風に襲われ、思わず、私は首を竦め

初めて「寒い」と声に出した。

 

特に朝の冷え込みが強く、日中になると、雲一つない洗濯日和の快晴に変わるのだが、日陰に入ると、風が冷たい、。

 

天気予報にも、雪マークの雪だるまが登場している。

 

部屋の湿度計も40%を切っている。

 

ここ、一週間ほど前から、朝、起きると、喉の痛みを感じガラガラと嗽を

心がけているが、もともと、体調の変化のシグナルが、先ずは喉の炎症に

始まる。

 

布マスクと言えば、未だに喧しく話題になっているが、私は、かれこれ、

30年近く、当時の主治医の先生から、夜間の就寝時は、マスクを着用して

寝るようにと言われていた。

 

そのために、手元には、必ず、ガーゼの布マスクを欠かさずにストックしていたので、現在も、そのマスクを使用している。

 

もちろん、新型コロナ禍で配布された例のマスクも、私は有り難く使用するつもりでいる。

というのは、些か小振りが、寝相の悪い私には都合が良いのである。

 

そのような訳で、今夜から布マスクで、喉の乾燥をガードする季節を迎え

街も、あちらこちらで、イルミネーションやクリスマスツリーで華やぎ始めた初冬の風景に変わりつつある。

 

2021年

11月

23日

八つ手の花

今日は、今年最後の祝日「勤労感謝の日」である。

毎日が、日曜日になった私には、現役時代と受け止め方が違った。

 

午前中9時過ぎまでは、雲が陣取り、太陽の日差しを遮っていたが、10時過ぎ、やっと、澄み切った雲一つない青空が広がった。

 

昨日の雨は、乾燥しきっていただけに、恵みの雨ともいえる。

 

昼食後、偶にはサンサンの降り注ぐ太陽と散歩しようと、出かけた。

思い切って、今日は、兼ねてより望んでいた場所まで足を延ばした。

 

街路樹のイチョウ並木も、ぐっと、黄色く色づいてきた。

行く先々で、昨日の雨で生気を取り戻した艶やかな八つ手の木には、真っ白の花が真っ盛りである。

 

白い花が好きな私は、私の背より伸びた大きな八つ手の花が真っ直ぐ生き生きと咲いているのを見ると、心に潤いを感じる。

 

見ていると、愛嬌すら覚える花で、ふっと、育ちすぎたネギ坊主に何処か

似ているようにも見える。

 

元来、いつも元気に、艶のある大きな葉を目いっぱいに広げている八つ手は、「天狗の内輪」と言われている。

 

小学校時代に友達と、夏の暑い日に、葉を内輪代わりに使ったり、大きく茂った葉の陰に身を潜めた隠れんぼなど、懐かしい思い出がある。

 

今が盛りの八つ手の白い花を、心行くまで愛でた私の「今年最後の祝日」

は終わった。 

2021年

11月

22日

線路は続く

今日は24節気の一つ、「小雪」、冬というほどでもなく、温暖化により、

季節感として、中途半端ともとれる。

 

朝から、東京は、何時、雨が降り出しても不思議ではなく、重い雲が頭上近くまで垂れこめている。

 

主治医からも、兎に角ストレスになる要素を極力排除する「生活改善」を

心がけるようにとのアドバイスを、目下の目標として日々努めている。

 

今日を限りに、ストレスの要素の一つを片付ける決心をし、相手に対して

兼ねてより、私の想いは伝えてきたのだが。

 

しかし、どうしても、接点が見つからないのである。

今日も、まるで、私の心模様のように、空も時刻を追って曇ってきた。

 

これ以上、相手と向き合うことは、精神的にも体力的にも限界を感じた私は、相手を傷つけない段階で退く決意をした。

 

素晴らしい出会いからスタートしたが、振り返ると、最初にボタンの掛け違いが生じたまま、今日まで続いていたと思う。

 

嗚呼、今日もダメだったと、ガクンと肩を落としてしまった。

 

空模様を気にしながら、「線路は続くよ」と、アメリカ民謡を口ずさんでいた。

 

口ずさんでいるアメリカ民謡は、本来、「楽しい」と明るく前向きな歌詞

であるのに、私はなんと、「平行線のままの状態が続く」といった後向きの気持ちに例えた自分を情けなく思った。

 

いつの日か、楽しく「線路は続くよどこまでも」といった関係になる様に

願っている。

2021年

11月

21日

屋形船の灯り

夕刻の散歩コースは、ちょうど、満ち潮時で、川をひたひたと、水が遡ってくる風景を橋の上から見るのが楽しみで、マスクを外すと、微かに磯の香りらしきものが感じられる。

 

橋を挟んだ両側には、屋形船の船溜まりで、かれこれ、20隻ほどが、ゆらゆらと、揺れている。

 

コロナ発症後、屋形船、釣り船は、利用者の姿もなく、いつも係留されている寂しい風景だった。

 

ところが、今日は違っていた。

川の水も黒く見える中に、屋形船のピンク色の提灯に、煌々と明かりがつき、長いテーブルには、箸や小皿が並んでいるのが、はっきり見える。

 

思わず、やっと、屋形船の利用者が戻ってきたと知り、心が弾んできた。

 

今夜の乗船客と思われる5~6人が、何やら楽しそうに会話している。

 

今でこそ、日本はコロナの感染状態が落ち着いているが、昨年の1月には

新型コロナの感染者が発表され、屋形船の利用者からと一気にメディアも

取り上げた。

 

毎日、私は散歩で橋上から、川の流れに身を任せた暗い屋形船を見ていると、とても遣る瀬無い気持ちになる。

 

早く、屋形船の灯りが戻る日を待っていただけに、とても嬉しかった。

2021年

11月

20日

震源地は東京23区

昨夜は5時過ぎから、空を見上げながら、「ま~だだかい」と思いながら、

140年ぶりといわれる部分月食を待っていた。

 

さんざん歩くも、ビルが邪魔して、体も冷えて来たので、諦めて帰ろうと決めたが、ある場所に一縷の望みをかけて、見上げた先に、赤茶色というか、赤銅色の月が夜空に見えた。

 

燈台下暗しとはこのことで、自宅からわずか数分の場所で、ちょうど、ビルとビルの隙間から、宇宙ショーを観望できた。

 

昨夜の素晴らしいひと時を過ごした余韻が今朝まで続いていた。

とても得をしたような満足感で、新聞を広げるのと同時に、「ドスン」と

体を突き上げられた。

 

その後、微振動に変わり、、もしかして地震と気が付くまでに、時間がかかった。

 

というのは、これが、「直下型地震」なんだと、初めての「突き上げられて後にストン」と突き落とされた感覚である。

 

東日本大震災の地震は、横揺れというか、左右に揺れ動いた記憶とはちがっていた。

 

ニュース速報に寄れば、震源地は東京23区で、震度3だった。

 

初めて、震源地が東京23区と知り、いつ来ても不思議ではないと言われている「首都直下型地震」に、恐怖を覚えた。

 

確か、10月初旬の夜の地震以来、しばらくはエレベーターの利用を控えて

非常階段を利用していたが、喉元過ぎればで、最近、また、エレベーターを利用し始めた矢先だった。

 

今朝の衝撃に、私は、またエレベーターの利用を控えようと決めた。

 

2021年

11月

19日

緑のおばさんの日

エレベーター内のインフォメーションで、「今日は緑のおばさんの日」と

知る。

 

1959年(昭和34年)、通学する児童を交通事故から守る学童擁護員(緑の

おばさん)の制度が東京都においてスタートしたそうだ。

 

交通安全のシンボルカラーである緑色の制服と、帽子をつけていたことに由来するそうだが。

 

コロナ禍まで、私は、隣接する区の小学校には、雨の日も風の日も、シンボルカラーの「緑のおばさん」「緑のおじさん」を三か所ある横断歩道で

緑のフラックで、子どもたちに「おはよう」と声掛けをしている姿に、頭が下がる想いでいた。

 

しかも、登校時と下校時に、必ず、子どもたちの安全を見守っている。

 

気を付けてみると、毎日、同じ人は見かけず、人材の豊富さに驚くばかりである。

 

わが区内と違い、昼間人口は都内でも商業ビルが林立、夜間人口は少なく

なる地域であるにも関わらず、何と、学童擁護員の協力者の多いことか。

 

高層ビルの隙間には、昔の佇まいを残したも低層の住宅も目立つといった新旧が混合した地域である。

 

それに引き換え、わが地区は、職住接近の地であったはずが、いつの間にか、著しく混在とした新旧が、子どもたちへの向き合い方も時代の変化が影響しているのではないかと、案じてもいる。

 

久しぶりに「ボランティア」について、深堀りする機会があった。

 

「ボランティア」とは、『自分(個人)の自由な意思によって、無報酬で

自分のできるサービスを必要としている人に提供する人のこと』である。

 

「お役に立てれば」といった純粋性と謙虚な行為による「ボランティア」は、受け入れ先によって、ボランティアの内容が異なるが、自らが進んで

行動、活動するのが基本である。

 

コロナ禍による「新しい生活スタイル」「働き方改革」等々により、今後

「新しいボランティア」を考える時代になってきているのかもしれない。

 

恐らく、年代によって「ボランティア」に対する考え方や、受け止め方の格差が生じると察せられる。

 

企業でも「リカレント」と言われる「学びなおし」の必要性を提案しているが、「ボランティア」も地域の特徴や、住民意識に沿ったオリジナルな「ボランティア」が求められるのではないでしょうか。

 

先人が培ってきた「ボランティア・スピリッツ」は、三十数年のボランティア体験から、揺るがないものと、私は想っている。

2021年

11月

18日

公園の柿の木

昨夕、友人から、帰郷したふるさとのお土産に、ビタミンカラー一色の柿を頂いた。

 

恥ずかしながら、私にとっては、今年初物であった。

食後のデザートに、季節を味わいながら、甘く、舌触りも柔らかく、美味しかった。

 

柿を食しながら、私は、ある公園にある「被爆柿の木2世」を思い出した。

 

今日は、必ず、散歩コースにと、立ち寄ると、公園の奥に、赤葉や黄葉に

色づいた柿の木が2本があったが、柿の実が実った形跡はなかった。

 

帰宅後、確か、グーグルドライブに残していた、当時の植樹記念の記事を探したが、見つからなかった。

 

記念の銘板によれば、1996年3月5日に、公園に隣接していた小学校の子どもたちに贈られたとある。

 

遡ること、1945年、長崎に原爆が投下されたが、柿の木が生き残っていた

木から、1994年樹木医によって、被爆の柿の木から、「2世」を生み出し

子どもたちに配る活動を始めたそうだ。

 

やがて、そのプロジェクトは、現代美術作家の宮島達男氏により、「時の蘇生」として、その一環として、小学校の子どもたちに寄贈されたのだ。

 

偶然、当時を知る小学校のPTAの役員に出会い、尋ねたところ、すっかり

忘れていたそうで、近いうちに、柿の木を見に行ってみると、懐かしそうに往時を思い出す表情を見せた。

 

25年の歴史を物語るように、2本の柿の木の根だと思うのだが、地上には

根があちらこちらに伸びて広がっている生命力には、背負った歴史の重さを改めて感じた。

2021年

11月

17日

ありがとう「左腕」

例年、11月にインフルエンザの予防接種をするのが、当たり前になっていた私は、体調も気がかりな要素を残してはいたが、恐らくこれもメンタルな部分が多いと、思い切って、予約していた時間に病院に出かけた。

 

ドクターから、「利き腕でない方を出して」と言われたのは、初めてで、

その一言で、はっと、私は気づいた。

 

長年、無意識に、採血の場合、左腕を出していた。

 

振り返ること、昨年の脳神経外科の入院中も、もっぱら、点滴投与、採血

にしても、左腕であった。

 

昨年の入院中、その後の経過診療の採血、区民健診、コロナ禍と75歳も重なり、肺炎球菌ワクチンの接種、2度の新型コロナウイルスワクチンの予防接種、年内最後であろうと思うインフルエンザの予防接種と続いた。

 

まあまあ、昨年から今年は、何と、わが左腕には、幾数もの注射針の歴史が残っているだろうかと。

 

幾分、夜になって、少し赤くなってきた左腕に、手を添えて「今日も、ありがとう」と、韓syの気持ちを伝えた。

2021年

11月

16日

歴史を刻む巨木

今日も、夕刻、日課になった散歩をしながら、満月が近くなったメタボの月を見上げながら、歩いていた。

 

道路に面した街路樹のイチョウは、残念ながら、まだ斑に色づいている。

偶然、その反対側に、これまで気付かなかったビルの屋上にまで達するような巨木が目に入った。

 

イチョウより遥かに群を抜いて高く、幹は独特の形態で、たくましさすら感じる太さである。

 

見過ごしていた巨木を見上げると、10階建てのビルの屋上に届いている。

 

すぐに興味を持つ私は、巨木に近づくと、銘板に「景観重要樹木」とあり

その下には、樹木を植樹した経緯、歴史が風雨に晒されてか、うっすらと

読みとれる。

 

その巨木は「メタセコニア」といわれ、北半球では化石として発見された「生きた化石樹木」といわれているそうだ。

因みに、和名は「曙杉」と呼ばれ、25~30メートルに成長すると。

 

どうやら、建物の竣工時に、企業の成長を願って植樹したとある。

 

もう一本の巨木も、毎日の散歩コースに欠かせない現在では、区立の高等学校の校庭内に、歴史を感じる大イチョウがある。

 

こちらは「都天然記念物指定」とあり、遡ること寛永9年(1632)年

肥前国の藩主の敷地に、小堀遠州が造営したといわれている。

 

いやはや、わが散歩コースにこんなに素晴らしい巨木があるとは、「目を何処につけて歩いているのだ」と言われそうだ。

 

2本の巨木からエネルギーを頂く散歩に弾みがつきそうだ。

 

2021年

11月

15日

大きな如雨露

ここ近年というか、5年近く前か、あるいは東京オリパラが決定したころにまで遡る方が、正しいかと思うが、都心部に隣接、地の利もよいため、見慣れた町の表情がすっかり様変わりした。

 

ホテルと、近代的なマンションの建築ラッシュである。

どんどん、開発されて、全く、長年住んでいながら、すっかり変わってしまったモダンな建物に、まるで、知らない土地に踏み入れたほどである。

 

嘗ては、商業ビルが立ち並んでいたが、現在は、分譲マンションと賃貸マンションが林立している。

 

これまでと違い、若い夫婦がこども連れで歩いている風景をみかける。

その顕著さは、これまでは少なかった保育園の多さに驚くばかりである。

 

確かに、これだけ、集合住宅といわれるマンションが増えれば、子どもたちの保育園の利用者が多くなるということだ。

町に子どもたちの声が溢れ、明るく活気のある町になるのは、とてもうれしい限りである。

 

できる限り、子どもたちの声が聞こえる散歩コースを心がけている。

保育園の前で、数人の男児の園児が、水をたっぷり蓄えた大きな如雨露を抱えて門から、飛び出してきた。

 

保育士はビニール袋に、園児の名前が書かれた球根を持ちながら、プランターの前で名前を呼んでいる。

 

大きな如雨露を歯を喰いしばりながら、運んでいる水は弾みで、園児の靴に水が入ってしまっているが、気にもかけず、プランターまで水を運んでいる姿が微笑ましく、思わず立ち止まって園児の活躍ぶりを見ていた。

 

3人の男児の園児が水を施して、植えつけ易くなったプランターに、保育士に名前を呼ばれて、先ほどの男児の園児も一緒に、自分の名前の付いたビニール袋から、球根を取り出して、植えこんでいる。

 

植えつけた球根の後ろに自分の名前札を差し込んでいる。

見ていると、ひとりの園児が、植えつけた球根と名札を、手に泥が付くのも気にしないで、周囲を叩いて固めている。

 

見ていると、プランターの前で一列に並んだ園児たちが、揃って同じ振る舞いをしている。

 

植え終わった園児たちの満足した表情に、私は、カサカサ乾燥しきった心に、潤いを取り戻したひと時である。

 

2021年

11月

14日

ビタミンカラー

薄紙を剥ぐように、体調が回復しているの感じた。

 

更に元気を取り戻したいと、最近のスーパーの食品でも、特に、ミカンを始め、ビタミンカラーを多く見かける。

 

そうだ、ビタミンカラーの補充をしようとミカンを目的に出かけるはずが急に、カボチャと焼き芋に気持ちが変わった。

 

まだ、冬至には一か月以上先であるにも関わらず、カボチャと、焼き芋のビタミンカラーを選んだ。

 

最初はミカンを求め、一度は手に取ったのだが、幼少期の出来事が脳裏をかすめたからだ。

 

父親の土地引き先から、木箱で、数個ミカンが届くという恵まれた環境にあった私は、食後、おやつ等々に、しかも一個ではなく、数個単位で口に運んでいた。

 

ところが、母親が、私の眼球を始め、皮膚にまでが、真黄色になっている

変化に、母親は常に病弱な私に敏感になっているため、慌てている姿が今も鮮明に残っている。

 

また、何か、体に悪いことが起こっていると察した私は、嗚呼、またかと

暗い気持ちでいた。

 

かかりつけの先生が、にっこりしながら、私に「ミカンをたくさん食べ過ぎて、ミカンの色素が出ちゃったので、これからはミカンを食べるのは、

一つにしようね」と。

 

実は、幼少期の体験がトラウマになって、現在でも、ミカン生産者や販売関係者には申し訳ないが、自らミカンを購入する勇気がないままでいる。

 

結局、おやつにほっこりとした焼き芋、夕食にカボチャを煮て、ビタミンカラーを食した次第である。

2021年

11月

13日

お別れの会

嘗て、人事異動と死亡欄は欠かせないで、必ず新聞に目を通していた。

 

いつ頃からだろうか、コロナ前までだろうか、葬儀の案内を多く見かけたが、最近は、葬儀告別式は親族だけで済ませ、「お別れの会を行うが日取りは未定」とある。

 

現在、これまで、コロナで延期していたが、このところ、新聞紙面に「お別れの会」のお知らせを多く見かけるようになった。

 

先月、美術商時代にお世話になったお得意先の社長様が亡くなった。

 

その後、「お別れの会」のお知らせには、嘗ては「お別れの会」が、交流の場でもあったが、今はコロナ禍を意識して、当日の会食はなく、マスク着用、検温といった内容が記載されていた。

 

一昨日、瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなられたと報じられた。

その訃報に、私には瀬戸内晴美さん時代を思い出していた。

 

当時、「銀座百点」の編集時代は、円地文子先生の仕事場である川口松太郎氏の住まいでもあるところの、「川口アパートメンと」にお伺いしたことを思い出した。

聞くところによれば、著名人が多く入居していたと聞いていた。

 

円地文子先生にお願いしていた原稿が出来上がったというので、私が頂きに伺ったところ、円地先生が「今まで、瀬戸内さんとおしゃべりしていたのよ」と、さりげなく話された。

 

確か、記憶が確かではないが、江戸川橋からだったか、春日駅からだったか、先輩から「椿山荘の近くで、川口アパートメントといえば、知らない人はいないから、行ってらっしゃい」と。

 

この地域は、坂が多い土地だなあと思いながら、坂に沿ったように、その

川口アパートメントが目に入った。

 

まだ、当時としてはマンションという表現はなく、「アパートメント」と

聞くだけでも、私は、その豪華さというか、存在感に驚いた。

 

瀬戸内晴美先生とは、夢遥か、淡い通り過ぎた一陣の風のような思い出でだけだが。

 

瀬戸内寂聴さんの「お別れの会」が、後日、東京で開かれる予定とある。

 

近年、活躍された方々の訃報に、一時代の終焉というか、新しい世代への交代期なのか、一抹の寂しさを感じる。

 

2021年

11月

12日

背中を押す

昨夕、まだ空が青く、白い月が微かに見える夕刻、ベランダから、夕日に

銀翼をキラキラ光らせた飛行機が機種を上げ、上昇中である。

 

飛行機を見上げた私は、明日、友人は待ち続けた懐かしい故郷に、機上の人になるのだと思った時、私は心底「良かった」と。

 

介護施設に入所しているものの、高齢である母親を、東京から案じるしかなかった友人は、私と違い、我慢強く、辛抱強いからこそ、今日まで耐えてきた精神力に驚くとともに、見習いたい存在だ。

 

一時の驚異的な感染数が、まるで、マジックのように減少傾向が顕著になってきた今、口には出さないが、友人の母親を案じる気持ちは痛いほどに

私には伝わってくる。

 

帰京すべきか、まだ、慎重に行動するべきか、迷いに迷っている感情が、

日増しに強くなっているのが、表情からもくみ取れた。

 

お節介かなと承知しながら、友人に「最近のコロナの状況からみて、今が

故郷のお母様に会う時ではないかしら?」と。

 

堰を切ったように、その一時間後には、飛行機の予約に始まり、ふるさとの弟や妹に連絡して、素早く行動に移したのである。

 

コロナ禍にあって、私の友人と同じように、自分の感情を抑え、苦しみ、

悩んでいる人が多いだろうと、想いを馳せた。

 

ところで、ところで、私といえば、午前中は体調に問題なく、相変わらず

ゴソゴソと動き回っていた。

 

昼食後、急に体調の変化を感じた私は、病院に連絡をした処、診療可能と

聞き、気持ちがざわついて、ナーバスになっているのが分かる。

 

2日前に受診したばかりであるが、「不安であれば、早く」といった声が

聞こえている。

 

その声に背中を押されて、レントゲン、採血、採尿の検査を受けた結果は

状況は悪化してなく、今の私に必要なのは、しっかり「休養」を取ること

により、エネルギーを使い果たした私の体調の回復はなさそうだ。

 

 晩秋から初冬の空を見上げながら、「先ずはさて置き、休養、休養」と、自分で背中を押すとしよう。

 

2021年

11月

11日

毎日朝バナナ

長年、朝食にバナナを欠かさないでいる。

 

当日の朝、食べ終わると、必ず、スーパーに出かけて補充するというのがこれまた、一つの朝食のルーティンである。

 

一年で、病院の採血検査日等を除き、年間350本近く食している。

 

今月8日の日本経済新聞の夕刊に、日本バナナ輸入組合の輸入数量によれば

2020年に約106万トンだそうだ。

1937年に一人当たり、2キロほどが、現在の消費量は現在6キロ台に、年間50本ほどになるとある。

 

そうしてみると、私はバナナの大量消費者といえる。

昨年の入院中も、週に2回程度、バナナが添えられてくると、なぜかホット

する私である。

 

なぜ、年齢を重ねても、未だに、バナナが大好きである。

幼少期、病弱だった私に、母親はリンゴを摺り下ろして、体にいいからと

勧めるのだが、摺り下ろしたリンゴがセピア色に変色しているのである。

 

変わり果てた色に、口が開けなくなるのである。

当時、ふるさとの店頭にバナナを見る機会は少なく、貴重品だったに違いないのである。

 

ある日、母親が、「今日は、あなたにはちょっと、まだ、強いかもしれないが」と言って、口に運ぶ私の表情を見ながら、ティースプーンで、少しずつ、切り離しながら、食べた記憶が懐かしく思い出された。

 

今まで味わったことのないバナナの味に、その後、母親にバナナと無理を言ったようだ。

 

そのバナナについて、先ほどの8日の夕刊に「信長はバナナを食べたのか」という見出しに、ついつい、読み込んだ次第である。

 

結論は、信長がバナナを食べたかどうかは分からないそうだ。

2021年

11月

10日

トリプル・ストレス

9月中旬に主治医の診察後、今日10日の診察まで、私にとっては、凄まじいハプニングが続いた。

 

ドクターに報告しながら、よく持ち堪えたと思いながらも、肉体が先か、メンタルが先か、いずれにしても、、限界に達しているのが、自分自身が

一番気が付いていた。

 

これまで社会人となって、走りに走り抜け、新型コロナウイルスの影響も重なり、なかなか、生活のリズムが掴めないまま、知らず知らずのうちに自分の新しい居場所を探していた。

 

これまで、いわれてきた「新しい生活スタイル」に、私は順応出来ないままでいたのではないか。

 

昨年は、医療との関わりが多く、その後、退院するやこれまで、先延ばしに来ていた今後の問題を改めて、見直し、整理をした。

 

今でも、信じられない程、9月の術後、10月から、どこにそんなパワーが

私にあったのか、今、振り返って不思議に思うほどの「ハイパワー」と、

スピードで動き回った結果、とりあえず、昨年末で収まった。

 

しかし、昨年の行動が過ぎたことにより、ある種のバーンアウトしたのではないかと思うようになった。

 

正に、およそ、3か月ばかりの私を取り巻く修理、故障が続いた。

「待つ」ことを強いられた時間は、私には心身ともにシグナルを発する程

にまで、健康を害していた。

 

今年も残すところ、2か月もなく、今後、トリプル・ストレスになるような

リスクから、身を守っていかなければと思っている。

 

診察を済ませ、嘗て、30代にドクターから、「心臓神経症」度診断されたことを思い出した。

 

全くの素人判断であるが、妙に私は思い当たるのである。

 

それとも、今、話題になっている「さよたんていのお悩み相談室」にでも相談してみようかなあと。

どんな処方箋になるのだろうか。

 

まあ、こんな突飛な発想するだけの余裕が残っているようだ。

 

2021年

11月

09日

空に魅せられた記念日

3年前の2018年の今日、私は、ふるさとで、話をする機会を頂いた。

 

講義は午後のため、午前中、主催者の方が、「天文のまち あさくち」といわれるふるさとのお山の頂にある「天文台」「岡山天文博物館」に案内して下さった。

 

残念ながら、天文台の誘致と入れ違いに、私は東京に移り住むことになり

61年ぶりに帰郷した今日が、「初めまして」である。

 

昨夜まで、「晴れの国 岡山」も雨に見舞われていたそうで、何とか、好天になってほしいと気遣っていたそうだ。

 

ところが、翌日の空は、雲一つなく、天高く澄み切っている。

見上げた空に私は、あまりの空の美しさに、声が出ないほど魅せられた。

 

こんな素晴らしい青空の下で、私は育てられたのである。

その日を境に、私はふるさとの空が脳裏に焼き付いてしまった。

 

私が興奮しているのが、ふるさとの人には、「別に」といった意識しかなく、逆に不思議に思えたようだ。

 

当時は、iPadを持ち歩いていた私は、帰京後、辺りかまわず、ふるさとの

空を「ほら、こんなきれいな空を見たことある?」と。

 

百人中百人が、「わああ、きれいな空、どこ?」と、目を丸くして驚く次第である。

 

今日は、「あさくち ブルー」が生まれた記念日である。

 

残念ながら、新型コロナウイルスのパンデミックにより、2020年3月25日を最後に、「あさくち ブルー」との再会が叶わない日々が続いている。

2021年

11月

08日

赤い山茶花が一輪

6時過ぎの朝は、ベランダ越しに見える空は鉛色の雲が垂れ込めていた。

 

ポストに朝刊を取りに行く際に、反対側の廊下に出て、空を見上げるつもりが、つい、地面の方を何気なく見下ろした。

 

一瞬、赤い色が見下ろした視界の左側に飛び込んできた。

玄関の植え込みの一面が白い山茶花の中に、一輪だけ、赤い山茶花が咲いていたのである。

 

その中で、白い花に負けないように、背伸びをしてかのように、高い位置に赤い山茶花の花が咲いている。

 

今年、最初の赤い山茶花の花のお披露目だと、外に出て見上げると、白い花が咲いている枝ぶりに遮られて見えない。

 

昨日7日は「立冬」である。

季節の几帳面さに「自然の力」を感じ、改めて凄いなあと。

 

それで、思い出したのは、「紅花」は、群生している中で、一輪だけ、黄色い花をつけ、それを合図に花が咲き始めるという話を聞いた。

 

紅花にはリーダーのような花の開花でスタートするという自然界の不思議さに驚いた記憶がある。

 

我が家の玄関の白い山茶花から、赤い山茶花の花への主役交代が始まるということである。

 

赤い山茶花は、色彩的に季節の移ろいを感じる。

冬の足音を既に、赤い山茶花は感じているのであろうか。

 

思わず、「♫さざんか さざんか さいたみち♫」と、童謡の「たきび」を口ずさんでいた。

2021年

11月

07日

リセット・リセット

今日は、立冬。

朝8時台は、まだ重い雲が空を覆っていたが、9時台には、気象予報通りの

「小春日和」、太陽が顔を覗かせてきた。

 

残念ながら、血圧は「High」であり、時々、雲の上を歩いているような状態になるが、don't mindである。

 

思い切り、窓を開け、日差しをいっぱい部屋に取り込んで、心身ともにリセット・リセットと言い聞かせる。

 

気が付くと、体のシグナルもあるが、かなり、あちらこちらで、放置しているというか、「まああ、いいか」といった現実がボロボロと出てくる。

 

此処で、思い切り、片づけたほうがいいよという声が聞こえてくる。

実は、性格上、先延ばしがストレスになるといった厄介な性分がある。

 

ふらつきや、少々の眩暈にナーバスになることで、自分を「負」のスパイラルに追い込んでいるのである。

 

今日は、自分の弱点と向き合い、整理しようと思いついたのを機に、体を

動かしている方が、気のせいか、スッキリしてくるから不思議だ。

 

しかし、血圧は頑固に現状維持で、私に立ちはだかっている。

2021年

11月

06日

スマホがご機嫌斜め

昨夕から、スマホの調子がおかしく、7月1日に新型コロナウイルスワクチンの2回目の予防接種も終わり、副反応もなく、これで、一安心と思った。

 

ところが、7月末から、自宅の照明器具の寿命が切れて、しかも、2か所で

一番使用度の多い場所が、一度にプッツンと。

 

玄関は持ち堪えているが、そこから先は、手探り状態である。

 

バッグから、スマホまたは、懐中電灯をかざし乍ら、転倒や躓きに神経を集中する日々が続いた。

 

先日、読んだ「AI支配で人は死ぬ。」に、養老孟司氏が、「ヒト一人、起きて半畳、寝て一畳」、まるで、我が家を表しているかのように、小さな

部屋でも、凡そ、3週間、新しい照明器具の取り付けまで時間を費やした。

 

その後、パソコンが思わしくなく、修理に出すと、修理不可能との結果。

修理の返事待ちと、並行して新しいパソコンを購入しなければとの予想が

的中、これまた、同じ機種でも、微妙に違っている。

 

新しい相棒に気遣いながら、慣れようと努めていた矢先、キッチンと、シャワーから、水漏れが始まった。

夜間は微かな水漏れの音が耳から離れず、寝付かれない夜を過ごした。

 

今月2日に水漏れの修理も終わり、さあ、これから頑張るぞと、意気込んだ矢先、今度はスマホとは、昨晩、嗚呼、スマホまでが、騒ぎを起こしてくれるとは、急に、午後から、軽いめまいというか、ふらつきを感じた。

 

血圧を測ると、およそ、3か月ほど続いた故障事件に、体がシグナルを発し始めていたが、やはり、やはり、悲鳴を上げてしまった。

 

スマホは昨夜の夜中中、インターネットがフリーズしたり、繋がったりといった状態で、振り回されたが、今日のお昼ごろに、回復した。

 

しかし、もう、心身ともに限界状態である。

主治医の診察日は、来週水曜日、それまで耐えるよう、言い聞かせる。

 

明日は24節気の一つ、立冬だが、「小春日和」との予報だ。

心身ともに、リセットできるといいなあ。

 

2021年

11月

05日

「運針」の試験

今朝の日本経済新聞には、首都圏における「中学受験」の特集号として、

別紙で、取り上げていた。

 

中学受験といえば、既にセピア色というか、数えてみると、64年前に遡る時代である。

 

さすが、特集号だけあって、内容も読みごたえがあり、コロナ禍における最前線の受験等々にも触れ、私は、じっくりと読み始めた。

 

確か特集後の終わりのページの紙面の中央辺りに、「運針」という伝統の

小見出しが目に入った。

 

豊島岡女子学園中学校・高等学校校長の竹鼻志乃氏によれば、女子裁縫専門学校をルーツとし、「運針」という独自の教育かつ誇るべき伝統あると紹介している。

 

まだ、運針を教育の一環として続けている学校があるんだと、私は思わず

声を上げながら、中学校に入学して、初めての家政科(家庭科)の授業が「運針」だったと記憶している。

 

真っ白い晒布に、赤い糸を通した針で、一針一針、針を運んでいく、その名の通り「運針」ではあるが、その縫い目はまっすぐで、きめ細かく揃えなければならないのである。

 

確か、指ぬきもして縫っていくのである。

 

やがて、その努力を試される「運針」の試験があり、点数や、批評をいただき、また、次なる試験まで、頑張るのである。

 

中学校に入学して、私は白い晒布に赤い糸が、今でも鮮明に残っている。

 

記事によれば、ある保護者から、「運針はマインドフルネスですね」と。

豊島岡女子学園は、授業前の、毎朝8時15分から5分間を、「運針」に充てているとのこと。

 

これまで、私は、母校の小学校については、多くを記してきたが、中学校時代は、スルーしてきた。

 

岡山市(現在は倉敷市に移転)のノートルダム清心中学校を卒業後、高等学校は家庭の事情で、1年生だけの在校生だった。

 

わずか、4年間のノートルダム清心の学校生活ではあるが、「運針」を通して、久しぶりに中学校時代を懐かしく思い出した。

 

因みに、日本経済新聞の夕刊に掲載の、エッセイスト平松洋子氏が、偶然倉敷の酒津焼を検索中に、氏が清心の中学、高校の出身と知った。

 

2021年

11月

04日

食器が重い

聞き流していたので、確信はないが、昨日の3日の文化の日より、統計的には翌日の4日のほうが、「晴れの特異日」だそうだ。

 

週初めの11月1日から、日本経済新聞の夕刊に、エッセイストの平松洋子氏の連載「こころの玉手箱」がスタートした。

 

これまで知らなかったが、「晴れの国 岡山」の倉敷市の出身と知った。

同郷ではあるが、私のふるさとは、山陽本線でおよそ30分の広島よりの地である。

 

今日の夕刊に、80代半ばのお母様への想いを、倉敷の酒津焼の器について

これまで気が付かなかった食器棚に、海外にまで知れた酒津焼の小鉢に気が付いたそうだ。

 

8代半ばのご高齢(失礼)になったお母様は、「自分の手には少し重くなった、もし、よかったら使ってちょうだい」と。

 

昨年、私はまだ、75歳であったが、実は既に食器の重さを感じていた。

その中には、父親が愛用していた食器も、「ごめんなさい」と整理した。

 

掲載されているお母様から譲り受けた3点の小鉢の写真から、見るからに

重そうである。

 

一言、私は、倉敷の酒津焼を手に取った経験はないので、ご容赦を。

 

今後、帰郷する機会があれば、是非手に取って感触を確かめたい。

2021年

11月

03日

「文化の日」に文化とは

改めて、「文化の日」に「文化」とは何ぞやと、学ぶ気持ちになった。

 

愛用の昭和52年11月1日の、嘗てのホームコースの龍ヶ崎カントリークラブの確か30周年記念品の三省堂特装版の「新小辞林」を開く。

 

「文化」とは、世の中が開け進むこと。自然に働きかけて人類の生活目的に役立たせること。学問、芸術、宗教など、人間の精神活動の産物と記載されている。

 

更に、「文化の日」は自由と平和を愛し、文化を進める日とある。

 

小さなコンパクトな辞書であるが、私は毎週日曜日には、日頃の心身共の

リフレッシュを兼ねて、足を運んだコースの思い出の品である。

 

残念ながら、ドクターストップがかかり、ゴルフ場を手放す結果に、私は

せめてもの思い出にと、先ほどの辞書を大切に利用している。

 

何やら日本国「憲法」との関連も高いと知るも、折角の「晴れの特異日」でもあり、今日は、「小春日和」でもある、素晴らしい祝日である。

 

もうこれ以上、頭でっかちになる必要はなく、素直に楽しく一日を過ごせれば良いと思っている。

 

素晴らしい青空をお供に、午前と午後の2回に分けて散歩に出かける。

いつもの散歩コースの一つにある、高等学校の校庭には、黄色く染められた落ち葉、外構の植え込みには、満点星の葉が鮮やかなオレンジ色から、

赤く染め初めている。

 

「自然に働きかけて」といった「文化」の件を思い出すとともに、龍ヶ崎カントリークラブの「満点星」も秋色に染まっているであろうと、想いめぐらしながら、歩いていた。

2021年

11月

02日

水漏れとさようなら

いやはや、修理業者を一刻千秋の思いで待っていたが、今日の午後にあの

几帳面な水漏れのポトリ、ポトリには、夜中に何度も目が覚め、心身ともに限界であった。

 

修理業者が「神様」のように見え、感謝、感謝である。

 

先日、友人と食事をしている際に、どちらからともなく、昔の雨漏りの話になった。

 

私が辛かったポトリ、ポトリについて、雨漏りの際に、当時は洗面器も、洗濯たらいも金物であり、私が当初、やかんを受け皿にしたことで、音が

響いたのである。

 

夜中に、もしかしたらペットボトルにして、気になるリズミカルな音から

解放された。

 

昔は、金物であるバケツでも洗面器でも、必ず、雑巾とか、手ぬぐいとか

布製品を敷き、音を遮断していたと、気が付いたのである。

 

昔の人の知恵はすごいと、モノが豊富にあるが、いざという時に、先人の

知恵を思い出そうと、思った。

 

「待つ」のが、苦手な私が、よくも10日間我慢できたと思っている。

2021年

11月

01日

来年の手帳を買う

今日から11月、「霜月」が始まり、「大安」でもある。

そして、明日やっと、悩まされた水周りの修理も済む予定で、一安心。

 

ならば、来年の準備でもといった前向きな気持ちになり、足取りも軽く、

先ずは、来年度の手帳を買い求めることから始めようと出かける。

 

迷わず、今年と同じ手帳にする。

つい2年前までは、現在使用しているようなハンディな手帳では済まなかったが、「毎日が日曜日」になった私には、如何に書き込む予定が少なく成ったことか。

 

自宅で改めて来年の手帳を開いて、さてさて、どんな年になるのだろうと

想うのも、何か生まれ変われるような気持になる。

 

そろそろ冬物に入れ替えねばと、引き出しの防虫剤もチェックして、電気毛布も出してと、次から次へ、冬に飛んでしまう。

 

郵便局には、年賀状が発売になり、ニュースで21年ぶりに新500円硬貨が

発行されると聞いた。

 

今日は、1868年(明治1)に日本で初めての洋式灯台である観音崎灯台の

起工日だと知る。

 

霜月のスタートに当たり、心も温もりを覚える日となった。