2020年

1月

31日

私見・私論ふるさと納税

今、私は故郷の浅口市への帰郷の車中である。

昨年より母校の小学校がのコミュニティスクールを学校運営協議会によってスタートし、今日は、一年間の評価を受ける日である。
どの様な評価が下されるのか、別に自信は無いが、私にとっては、学校運営協議会は生き甲斐でもあり、楽しみである。

ふと、帰郷する際に、何時も頭を掠めるのが、昨年より、総務省による「ふるさと納税」の見直しで、急に囂しい騒ぎにもなった。
漠然と他人事の様に見過ごしていたが、「ふるさと納税」について、気が付くと自然の成り行きの様に関心を持った。

此れはタイトルにも示したが、私見・私論である。
凡そ61年振りに、故郷の母校で、今迄気付か無かった「ふるさと」の良さを感じた。
それ以来、私はこの素晴らしい故郷と言われる岡山県で一番小さな町(市)ではあるが、多くの人に良さを知って欲しいという想いが湧き上がってきたのである。

自分でも驚く程の「ふるさと愛」が芽生えたのである。
地元の人は全く「あたり前」の中に、故郷に距離感を持っていた私は新鮮に受け止め、幾つも故郷の「当たり前」を伝えたくなる自分があった。

本来は、自分の出身地に感謝の気持ちを込めて、納税システムであり、最初に目的というか納税品目から、始まるのは、長年ボランティア活動をしている私には解せないというか、純粋性が欲しいと感じる。

此れ迄に「故郷でお世話になりました」という気持ちの人によっ て、縁のある土地に納税するというのが、私の私見・私論である。
勿論、その様な人も多くいるので、一概に結論付けるのは危険であり、お叱りを受けるのも、承知の上である。

一人相撲と分かっているが、故郷の良さを一人でも多くのに、知って欲しいと、勝手にホームページにアップしている。
つまり、「浅口ファン」が増えて欲しいとの想いだけで、それ以上の何ものも私の中には住み着いていない。

母校の小学校にもその想いが原点である。
今迄、思い出さなかった母校で過ごした日々が湯水の様に湧いてくる。
恐らく、故郷を離れていただけに今、私は未来の後輩の為に出来る限りのエネルギーを投入するのが、私の「ふるさと納税」と言える。

間も無く、あさくちブルーの待つ「鴨方駅」が近い。

2020年

1月

25日

井上靖氏で思い出す

令和2年の未だ松の内の4日、井上靖氏が1969年ノーベル文学賞の候補に推薦されていたというニュースを知る。
残念ながら結果は選考から漏れたという報道に、私は瞬時に思い出した。

大学を卒業後、文藝春秋社の「小泉信三編集室」に在籍していた。
井上靖氏の小泉信三氏による著書の「海軍主計大尉小泉信吉」に触れた講演の記録を聞く機会があった。

井上氏に拠れば、信三氏の一歩の歩幅が、子息の信吉に二歩で後ろから追い付こうとする微笑ましい親子の風景について、語っている。
ともすれば、読み過ごしてしまいそうな場面に、気づく心細やかな井上氏の感性が心に残っていた。

もう一つは、井上靖氏原作「通夜の客」の映画「わが愛」である。
改めて検索すると、1960年に五所平之助氏により映画化されたとわかる。
製作年には、私は、未だ10代なので、後にテレビの放映だと思う。

唯、鮮明に覚えているのは、ファーストシーンの有馬稲子演じる水島きよの喪服姿の美しさに魅せられたのである。
残念ながら、そのシーン以外は記憶に無く、こんなに喪服姿が私に強烈なインパクトを与えるとは思わなかった。

今回、改めて原作について検索したが、ストーリーの記憶は無く、喪服姿のワンシーンのみを記憶に留めているだけだった。
いつしか、私の中では、喪服の似合う女性になりたいとの憧れだけが今も記憶に残る。

共に羅列するのは、私の中で躊躇いもあったが、思い切って親子の愛情と、秘めた愛情を無くした様々な悲しみに想いを馳せてしまった。

2020年

1月

17日

お懐かしゅうございます

毎朝、先ずは新聞に目を通すというルーティンから、一日が始まる。
そのルーティンに沿って、日本経済新聞との長年のお付き合いの中でも、今日17日の朝刊の経済欄に、「松下元日銀総裁が回顧」という記事に、私は驚いたというか懐かしさを覚えた。

松下元日銀総裁ではなく、私が存じ上げているのは太陽神戸銀行銀行、さくら銀行の頭取としてである。

松下頭取とは、銀行のエレベーターに私が偶然乗り合わせた事に始まる。
「頭取様でいらっしゃいますね。初めまして、私、此方に口座を持っています淺野マリ子と申します」と、恥じらいも無くご挨拶を、頭取からは「それは有難う御座います」

その日の内に、葉書で「先程はエレベーターで、突然お声を掛けて失礼致しました、淺野マリ子で御座います」と、再度不躾な行動にご挨拶を認めたのです。

アメーバ企業の私も、新年の名刺祝賀会には、必ず出掛けてましたが、当時は女性の姿は見当たらず、入り口で、祝賀会の所属指名を読み上げるのである。

一瞬、辺りの雰囲気に変化が感じられる程、未だ女性の進出は珍しかった時代である。
新年の初日4日の午前中に、例え小さなグラスに日本酒は五臓六腑に染み渡る程であると同時に、衆人の興味ある視線を感じるものの、私は 何処かで開き直っていた。

気がつくと、松下頭取がポツンとお一人でいらした。私は、思わず頭取に歩み寄ってご挨拶をすると、「貴女の様な気さくに声を掛けて欲しいのですが」と笑みを浮かべ、美術の話に終始した記憶が今も、今日の新聞から懐かしく思い出した。

今は個人情報重視で、企業人の個人邸は殆ど明らかにされない時代であるが、嘗ては企業の個人情報も入手しやすい環境にあり、私は個人邸訪問も重要な事業の為に欠かせなず、時間があると、奥様にティータイムに訪問して親しくさせて頂いた。

日銀総裁を辞した後、ある相談にご自宅をお訪ねした際に、お孫さんの手を引く姿に全てをやり遂げた頭取の想いを察し、私は目的を告げる事なく静かに辞した記憶を思い出した。

17日の日本経済新聞の記事によれば、97年の山一への特別融資について「誰かが悪者になり決着」との回顧に、正にその通りのお人柄を偲ばれたのである。

2020年

1月

12日

新聞の記事に頷く

毎朝、新聞に目を通して出掛けるというのがルーティンになっている。
然し今週はその朝のリズムが噛み合わなく、今日は資源ゴミの回収日であり、早朝より片ずけることになった。

出来るだけ新聞の記事を切り取って残すという作業は極力止めようと決心していたが、アレもコレもと、気になると記事を切り取らなければ、資源ゴミ回収の時刻に間に合わない。

令和初の連休に入るから、その休日を利用して整理出来るという囁きが聞こえて来た。
実にその手の誘惑には、素直になる私は、チョキチョキと切り抜いた記事にやっと目を通す時間が来た。

日本経済新聞の夕刊に「セカンドステージ」を毎回楽しみにしている。
1月9日に、掲載されていた記事に、烏滸がましいが、自分を重ねて頷いた。
「母校に恩返し」の小見出しに思わず、「ガッテン」であった。

記事によれば「第2のキャリアとして大学で人づくりを」とあるが、私の場合は小学校と、母校では無いが、薬学部で長年の病院ボランティアに付いての講義を務めているという小学校と大学という距離感というか時差のある場である。

母校を卒業して60数年を過ぎた私にとっては、母校での授業参観がとても楽しくもあり、授業の内容が余りにもかけ離れていて、内心、難しく、答えられない。

それ故に、母校の小学校の授業は、私には「学び直し」の場であり、新鮮であると共に、新しい知識を取り込んだ満足感がある。

今年も、来週の16日には、薬学部3年生に「医療ボランティア」の実習前の講義があるが、これも又、私が改めて初心を取り戻す貴重な場である。

記事には、日本IBM名誉相談役北城恪太郎氏が、「次の時代を担う人づくりはやりがいがある」通りである。

今、私は、誕生日には後期高齢者の仲間入りをするが、寧ろ私が生き甲斐であり、やり甲斐の双方向性にある。

2020年

1月

07日

最終章は次への始まり

一年の計は元旦と言われているが、私は昨年末に新しい年の方向性に自信を持つ迄に、自分を客観的に見つめ、現実を真摯に受け止めて、優先順位を決め、素直に自己分析した結論に迷いが無かった。

その決意を胸に新しい年を迎え、三大流星群の一つ「しぶんぎ座流星群」が、1月4日の夕刻5時頃からという情報を知る。
1時間あたり20個、然も東京では4日は深夜から夜明け、5日の夜明けが確立が高いとの情報に、「天文台のまち あさくち」出身の私は、もしかしてと一つぐらいは流れ星に出会えればと、4日と5日にビルとビルの間から見える空に、寒さが苦手だが、何となく新年に「星に願い」といった思い付きからである。

残念ながら、身体は冷え切ってしまったが、よく目を凝らすと、弱々しいがいくつかの星が瞬いていた。
東京に住んで初めて「東京の星」を見ただけで、私の想いは達成できたと満足した。

小さな満足感の余韻を残し、今年初めての活動は病院ボランティアから始まった。
昨年末の決断を実行に移す始まりとも言える今日は、全てがこれまでとは異なる想いがあった。
それが何かとは上手く表現出来ないが、確かに自分の中で、既に「立つ鳥跡を濁さず」という気持ちが強く感じた様に思える。
不思議に新鮮さすら覚えている感覚もあった。

もう長く活動のチャンスを失くしていた病気の方が「笑顔」を取り戻す出逢いに、私は胸が熱くなる程、嬉しかった。
本来の私が望む活動を、今年の最初の日に叶ったのである。
もう、乾き切った私の心が、久し振りに病気の方の「笑顔」から潤いを戴いた。

肝心のお目当ての流れ星は見えなかったが、小さな小さな「星」が想いを叶えてくれたと思った。
素晴らしい最終章の始まりは、次なるスタートへ大きな力となった。

2020年

1月

03日

知識の広がり

一昨年の61年振りの故郷への帰郷以来、毎朝天気予報を確認してきたが、新しく故郷の天気予報も確認するというルーティンが始まった。

故郷へ天候を知る事によって、毎朝故郷と繋がっているというか、東京にいても共有したいという想いがあったからである。

偶然だが、スマホからのスマートニュースだと記憶しているが、一瞬、ウエザーニュースに「1月の異名」という記事が紹介されていた。

兎に角、何時も新しい情報を発見好きな私は、直ぐに書きとめようとしたが、見逃してしまった。
落ち着けば、スクリーンショットを活用すれば良いと分かったが、その辺りが未だアナログ的手段を取ってしまう。

どうしても気になった私はパソコンで、睦月に付いての異名を検索した。
ウエザーニュースに載っていた異名より、遥かに多くの別名に驚くと共に、今年最初の新しい知識の発見と嬉しくなった。

数ある中で、私が気に入った幾つかを取り上げると、「早緑月」「初空月」「子日月」の3点に絞られた。

「早緑月」「初空月」にしても、故郷の浅口市の自然やあさくちブルーの青空が重なって、何と清々しい素敵なネーミングである。
「子日月」には、一年の最初の干支 は子年からスタートするわけで、特に今年は正に新しい年と合致するのである。
今年は、1062万人が   子年生まれだそうだ。

何だと思う人もいるかも知れないが、私にはこの3点には深い想いが秘められている。

2020年

1月

01日

オリンピックポスター

2020年の新聞は、予想通りに今年開催される東京オリンピック・パラリンピックの話題が紙面の多くを占めていた。

各紙面を拡げていると、日本を代表する一つの企業の紙面の全面広告に、1964年のオリンピックポスターが重なったというか、思い出した。

当時のポスターが鮮烈に私の記憶の扉を開く事になった。
一気に私は元旦に浸るより、1964年のポスターの方が優先していた。
早速パソコンで、私の記憶を辿って、先ず思い出したのはグラフィックデザイナーの亀倉雄策であった。

有りました。あのインパクトのある公式ポスター第1号のエンブレムの東京オリンピックのポスターを、時を過ぎる事56年だが、段々、記憶が鮮烈になっていた。
見つけた時は、何とも言えない高揚感に包まれた。

当時の私は20歳であったにも拘らず、実に明確にインプットされていたのである。

どうしても、今年の紙面の企業のポスターが重なるというポスターを見つけたいと思い、更に検索を続けると、見つけました。

東京オリンピックの第2号と言われる画面から今にも飛び出す程の迫力のある「スタートダッシュ」のポスターである。
私の記憶をの追跡は、更にあのインパクトのあるポスターに改めて熱い関心が止まる事なく、検索を続けた。

第2号のポスターは、亀倉雄策、フォトディレクションに村越襄、写真は早崎治によるものだった。

1964年のオリンピックポスターは、後に私が美術の仕事に関わるようになって、ある建築に、オリンピックポスターでコーディネートする機会に、改めて、日本の1964年当時のポスターに魅入られた結果と言える。

亀倉雄策の作品は、今も異彩を放って継続しており、今私の手元にある明治チョコレートのロボも作品の一つと知り、私には、今年のオリンピックのポスターから多くを知り、ある意味あるスタートを切れそうだと想った。

素晴らしい作品は、永遠に心に生き続けていくという人生の生き方を知らされた。