2020年

6月

30日

一つの時代を終える

約30年近く私のライフスタイルの中で欠かせない存在だった病院ボランティアを、今日30日で、完全に終わりとした。

数年前から、心の中で退き際を考えていたので、特別な感情は無かった。
寧ろ、やり抜いたという想いが強く、今回の選択に私は、これで良かったという達成感を噛み締めていた。

不思議に、病院ボランティア活動についても、何も思い出すことも無い。
こんなにサッパリ、一つの時代を終えるという私自身の感情に今は答えが見つからないでいる。

恐らく、やり終えたという想いのみがあるだけの日だった。

2020年

6月

28日

孫は(わ)やさしい

これぞ、梅雨の雨と言った、烈しい雨が午前中続いた。
時々、換気に窓を開けると、瞬く間に、部屋に迄降り込んでくるような勢いだ。

天気予報に拠れば、午後には雨が上がるとの予報通り、お日様が顔をちょこちょこと見せ始めた。未だ、今日のウオーキングの1万歩のノルマを達成していない。

東京都知事の事前投票を兼ねて、外に出ると、私同様に思いつく人が多く、投票会場には、厳重に「3密」を意識しての、都民の役目を果たした。

さて、1万歩にはトライしようと、雨上がりだが、未だ雲行きの表情には変化が見られるが、矢張り外出は気持ちのリセットに効果がある。

スマホの歩数を時々見ながら、以外に大変だと知る。
嘗て、病院ボランティア活動中は、平均2万歩だったが、活動を終えて自宅に帰って、嗚呼、今日も何気なく気がつくと、歩数を見ていたが、目的なく唯ひたすら、歩く辛さを感じているが、自分を守る手段として決めたからにはやり遂げねば。

ちょうど冷蔵庫の食品が少なくなっていたので、スーパーに立ち寄る。
相変わらず「ラジオ深夜便」との縁は深く、コメディアンの88歳の大村崑氏が、食生活について「孫は(わ)やさしい」と話していた記憶が、フット思い出した。

この「孫は(わ)やさしい」とは、「豆・胡麻・若芽・野菜・刺身(魚)・芋」を表現した食材である。
昨年、体調を崩した時も、自炊と食材を配慮して恢復した経緯に、再度、また食生活も改めて「新しい生活様式」として、トライしようと思った。

お陰様で、ノルマの1万歩以上で、今日も達成できた。

2020年

6月

27日

ステンディングライフ

凡そ、この10日間余りの毎日は、マスク越しの笑顔迄消失する苦悩、苦痛の日々を過ごして来たが、矢張り、3日前から、体調にシグナルが出てしまった。

これまでも、出来るだけ散歩を心掛けて来たが、今回の私にとっての大失敗で、ひたすら、パソコンの回復を求めて歩き続けた処、ある部分の体調に変化が現れた。

以前にも私は、パソコンを始め、事務作業はチェストタンス上で、処理をして来たが、最近、テレワステンディングデスクを利用する人が多いそうだが、私は、9年近く、このスタイルを先取りしていると言える。

消失ショックの中で、ハッと気づいたのである。
もう、これ以上今回の苦悩を抱えると、更に健康を害する要素を増やすだけである。
そうでなくても、来月早々の検査の数値が気になっている。

そこでステンディングデスクから閃いたのが、私流のステンディングライフと首を傾げるような言葉ではあるが、利点はあると試みようと始めたのである。

これまでの散歩数値は、平均5千歩だったが、それを倍の最低でも1万歩にした。
散歩をしながら、直面している問題や、思わぬ閃きや思い付きや気付かない部分が不思議に頭に浮かんでくるのである。

これまではシェストタンス上で、考えていたより遥かに、散歩と言われるウオーキングも、ステンディングライフに取り入れてみるという試みで、少しずつ心身共に未だ僅かだが、効果が見える。

今後のコロナ後の私の「新しい生活様式」に繋がっていくような感触を覚えている。

友人に拠れば、座り続けるのは健康的にも良くないそうで、1万歩近くウオーキングすると、免疫力を高め、認知症にもなりにくいと、エールを送ってくれた。

「雨にも負けず」に「継続は力なり」である。

2020年

6月

26日

母校が遠くなる

今、私には、母校の学校運営協議会に参加するのが、唯一の生き甲斐として、未来の子ども達が、元気で、明るい笑顔になるような、キラキラとしたアイデアを考え、提案する楽しみを、新型コロナウイルスによって、無惨にも私から、母校を奪った。

本来であれば、4月に令和2年度の第1回の学校運営協議会も、コロナの所為でパスし、先日、7月に第2回目の学校運営協議会が開催される案内にも、今の東京は先週の19日以降、第2波の不安が過ぎる感染数に、私は辛いけれど、踏み止まらなければならないと、内心は今回もパスしなければと想っている。

大切なふるさとや母校に迷惑をかける訳にはいかないのである。

何か、私が後期高齢者になった途端、大変重いプレゼントを頂いた。
コロナは人としての、絆やコミュニケーションや繋がり等々を全て破壊する素質というか存在を持っている。
全く、これまでの人を全否定して、未だに威力は衰え知らずで、どこまで、いつまで続くのだろうと不安を撒き散らしている。

言っても仕方ないと解って居ても、喧嘩を吹っかけたくもなる心境だ。
惨敗するのは解っているが、私には、新しい出発を始めるや、コロナによって、母校を奪われ、然も体調も、パソコンも破壊しかねない存在である。
然も、大切な資料迄、消失する迄に追い込まれた私は、何とも身の置き所が無い。

来週、つまり7月になると、自分の体調の精密検査、パソコンも来週末に専門業社に再度の回復を委ねる予定でいる。

出来れば、あり得ないが、新型コロナウイルスが収束、終息の方向転換をして欲しいと同時に、パソコンも回復して欲しいと、願っている。

苦手な「待つ」しか無い水無月が一刻も早く過ぎないかなあ。

2020年

6月

24日

回復不能のパソコン

先週19日にパソコンの修理を依頼し、「全力を尽くします」の一言に回復を待つが、入院治療するが、24日に、「出来る限り尽くしましたが、回復不能で、申し訳ありません」との返事に、頭が真っ白になった。

どうも、新型コロナウイルスの自粛生活の頃から、私の中で、少しずつ生活スタイルが安定しない毎日が続き、毎日が晴れやかな気持ちになる日が無かった。

そんな状態で、パソコンに向かった私は、まさか回復不能の状態になる程のミスをするとは、然も残して置かなければならない大切の資料を消失してしまうとは、プロの力を信じて待っていただけに、その失望感、喪失感に自分を立て直す力は残っていない。

でも、未だ諦める訳には行かないという想いが頭の中を駆け巡った。
残された私にはエネルギーが限界に達していたが、一方で未だ可能性があるに違いないと、俯きながらパソコンを抱え、ふと気が付いたというか思い出した。

自宅にある名刺ケースから、思い出したプロの名刺が見つかった。
実は、話題が逸れるが、これを医療では「ドクターショッピング」或いは「セカンドオピニオン」に該当すべきものである。

心当たりの名刺の専門業社に、まさに私は「ドクターショッピング」を承知で、連絡を入れた処、先方に記録が残っていた。

然し、私は、指一本のミスで、身を削がれる程の苦痛に襲われる今の時代の先端技術の強さと弱さを味わった。

恐らく、75歳という年齢は、このような体験もするある一つの年齢の事実と区切りとなるという警鐘だと想っている。

2020年

6月

21日

全力を尽くします

今月19日、心が凍る程の大切な資料をパソコンのミス操作で失い、パソコンの修理に依頼した。

どうやら、簡単に回復する状況ではなく、19日の終業近くに、担当者から、「全力を尽くしますので、数日、月曜日迄には」との返事に、祈る想いで、「きっと治してね、お願いします」とすがる気持ちで、帰宅した。

全く、食欲もなく、喉を通らないこと迄は、19日と重複する。
何とか、土曜日は、パソコンは修理の為に、いわば入院していると自覚していた。

処が、今朝何時もの習慣というか、体が覚えているというか、無意識にパソコンのある前に立って、初めて、そうか、パソコンはまだ手元には無いと気が付いた。

苦手なデジタル生活から、逃げたい、出来れば、縁を切りたいすら日頃想っているのに、何と皮肉にも紙資料で調べるとという習慣から、ネットの検索が極自然の生活スタイル、生活習慣になっていたのだ。

相変わらず、朝から、牛乳と茹で卵を食べるのが、気の所為か、消化しているとは思えないのである。
幸いに、午後から、弱い日差しに、毎日日課にしている1万歩から8千歩を目標にしている私は、部分日食も見られるといいなと想い、胃まで到達しない朝食もスッキリすると、散歩に出かけた。

目的のない散歩程、私には苦痛である。
部分日食という目的だが、時間を追って、重い雲が目立ち始めた。
特に、今日の散歩は、「全力を尽くした結果」が、案じられて、何時も散歩とは違い、スマホに表示される歩数ばかりを気にして歩いているだけだった。

すると、歩きながら、バックが非常に重いと感じた。
何時も、iPadとスマホに、多くのカードの入った財布、お薬手帳、手帳等々と持ち歩いているが、今後、カードが全てはスマホで処理されるのも良いなぁと思った。

バックの中で、スマホの歩数は8千歩になっていたので、もう今日は心身共に限界を感じ、踵を返して自宅に急ぐ。

温かい日本茶に、初めてホット息をついたが、直ぐ、パソコンが無事に手元に返って来るよう、願う日曜日を過ごす。

2020年

6月

19日

失う

都道府県をまたぐ規制緩和を始め、前面的に解禁され、日本に明るさに溢れた日がスタートされた日の午前中、私は、パソコン上のミスで、大切な資料を失ってしまった。

失った資料が如何に大切かといえば、E・A・グロマン編・松岡敬一訳に『愛する人を亡くした時』に等しい程の資料だった。
「愛児を失うと、親は人生の希望を奪われる」「配偶者が亡くなると、ともに生きていくべき親を失う」「親が亡くなると、人は過去を失う」「友人が亡くなると、人は自分の一部を失う」

簡単に回復出来るものではなく、プロの力に助けを求める以外にないと思った私は、ことの重大さに、やっと回復した体調でも、食事が一切喉を通らなくなり、ひたすら私は探す以外に頭の中を駆け巡っていた。

前日までの青空が、終日雨の中を、助けを求めて、久し振りに歩数計を見ると、2万歩を超えていた。

日頃の怠慢もあっての、今回の資料を失った理由が誰のせいでも無く、私の怠慢から来るもので、毎日、愚直な程、コツコツと処理していればこんな苦痛を味なわないで済んだのである。

失った資料は、私にとって、愛児であり、配偶者であり、親であり、友人の存在を失ったという喪失感に、最近では一番辛い想いとなった。

病院ボランティアで「お話相手」として、病気の方の話を聴いて来たが、病院ボランティアを辞して、初めて「失う・喪う」言葉の重さと気持ちを皮肉にも実感した。

今、パソコンはプロの力を信じて、「待つ」より仕方がないのである。
改めて「待つ」言葉にも、私は実感している。

恐らく、今回の「失う」という大失敗にも、今後の私に何らかの意図があるのだろうと前向きに考えようと、自分を支えている。


2020年

6月

17日

終日清々しい東京

今朝、窓を開けた時、何時もの東京の空気と違っていた。
天気予報によって、20パーセント程の珍しい乾燥していたと知り、こんなに湿度に体にも察知できる。

何時もの定時に一階のポストへ新聞を取りに行く際、マスクを掛けるのを忘れる程、空気が美味しいと思ったからか、慌てて部屋に戻った。

時刻を追って、空も清々しく、気持ちも清々しくなった。
実は、爽やかと表現したいのだが、「爽やか」は秋表現だと聞いたことがある。

然し、今朝は、秋の雰囲気を感じ、漂わせていた様に思える。
吹き抜ける風も、爽やかで心地よいものであった。

これだけ、数日体調不良だった私は、薄紙を剥ぐ様に、体調の恢復を感じていた。
念の為に、薬のお世話にはなっているが、もう大丈夫だと自信を持つ状態になった。

これまでは、毎日一万歩以上歩くところ、凡そ3ヶ月ばかり、中々分かっていても、続けるのが困難だった。
それでも、自宅ではエレベーターを利用しないで、階段で往復するもの、たかが、300歩である。

出来るだけ、運動不足にならない様に、朝と夜、散歩をしていて、気付いたのは、すっかり街の風景が様変わりしていた。
極端に言えば、恐らく東京オリンピックを目当てだと思われるホテルの多さに驚く。

8時過ぎの夜も、家路に急ぐ人や友人、同僚との楽しげな話し声が、外まで聞こえてくる。
これまでの閉塞感から開放された、人間らしさを感じていた。

夜風も乾燥していて、久し振りに、東京にもこんな日があったのだと幸せ感を覚えていた先から、微風から其処はかとなく甘い薫りが漂っている。

そうか、この季節は、私の大好きなくちなしの花の薫りである。

散歩から、季節のプレゼントを貰い、終日、とても清々しく、爽やかな1日だった。
僅か、1日でも、東京からのプレゼントとも思ったのである。

2020年

6月

16日

61年ぶりのふるさとの学び舎から2年後

今日の私は、日常の喧騒に戻っている東京の街を歩いていた。
唯、人とすれ違う時は、コロナ前と違い、お互いが無意識に距離感を保っている。
2年前の前日、母校の駅の一つ手前である、金光教本部のある山陽本線の金光駅で降り、文政十年創業の和風旅館に宿をとった。

前日も翌日の16日も「あさくちブルー」で、母校の小学校に近ずくにつれ懐かしい記憶にある懐かしいふるさとの香りを感じた。

すっかり、61年前の面影はなく、モダンで明るい校舎に変わっていたが、玄関前の二宮金次郎の像に、確か卒業式に友人と像を背に 写真を撮った記憶が蘇った。

PTAの70周年記念に、3月に私の拙著がソフトカバーから、文庫版に刊行された「笑顔の力」から、一歩踏み込んで『笑顔の持つ底力』というテーマだった。

61年ぶりに母校の小学校の校長先生、教頭先生を始め、心温かいもてなしに、なんとも言えない幸せを感じ、すっかり、忘れない母校になった。

帰京後の凡そ2カ月後の、2018年8月14日の日本経済新聞のコラム「春秋」に、島崎藤村、室生犀星、坂口安吾の三氏のふるさとへの想いが紹介されていた。

夫々がふるさとに対する想いに、慌ただしい都会の喧騒の中で、2年前の日を思い出していた。

やはり、私は島崎藤村の「血につながるふるさと  心につながるふるさと  言葉につながるふるさと」が今も正直な実感として思い出してしまうのである。

コラムによれば、「地元の小学校の講演で、この言葉を述べ、しばし絶句し、故郷への思慕をあらわして、これほどいちずな物言いはない」と。

東京の街を歩きながら、61年ぶりに帰郷後、新たにこれまで、感じた事のないふるさとへの思慕を強く覚え、今はふるさとに一途な想いでいる。

然し、凡そ60年近く過ごし、生活の拠点の東京もある意味でふるさとと思わなければと、現実を受け入れるよう、自分に言い聞かせている

室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの/そして悲しくうたふもの」なのか。

2020年

6月

14日

ネット検索の蓄積疲労

昨日からの体調が芳しく無く、シャッキとしない。
仕方なく、横になったり、起きたりの繰り返しを続けている状態である。

一昨日で、一つの区切りがついた安堵感も影響していると、思われる。
然し、よくよく考えると、新型コロナウイルス発祥の報道から、どうも、聞き慣れないい表現や、デジタル社会の言葉に、つい気になって、ネットで検索している。

次から次と、デジタルの専門用語の登場に、限界は承知の上で、気がつくとパソコンに向き合った検索をしている。

然し、元々、自分が可能な知識に、さらに私にとっては、ある段階から、「新しい働き制度」の推進にも、疲れを感じ始めていた。

曾て編集者として、悲しいかな、何処までも追求してしまうので残骸が残っている為に、時を忘れて、行き着くところまでと、頑張ってしまう。

遂に、体力的に、凡そ3ヶ月以上、新型コロナウイルスから、言葉にも変化があり、情報の多さもあって、私のエネルギーが枯渇してしまったという、私なりの、今回の体調不良の診断を下した。

その状況から、抜け出すというか、距離を置くか、逃げ出すかであるが、そうもいかないと考える。

もう、水無月からのブログには、新型コロナウイルスに関係する生活様式等々について縁を切り、マイスタイルを模索する楽しさというか、次なる生き甲斐を探していこうと思っていた矢先に、ダウンしてしまったのは、「疲れたら、休め」しかない。

自分に言い聞かせ、横になったり、起きたりの繰り返しの情け無い1日で終わりそう。


2020年

6月

13日

とうとう、ダウンしちゃいました

これまで何とか私なりに努めてきたつもりだが、遂に昨日からの疲れが取れなくて、終日ベッドと仲良しになってしまいました。

今日は、昨年からスタートとした母校のコミュニティスクールの第一歩として、「ほりでえ☆すまいる♡きゃんぱす」として、岡山名産の清水白桃の実に、袋掛けをするといった「親子で桃づくり」の体験の日です。

この岡山でも浅口市は桃づくりに適した土壌で、昨年より、私の自宅のスーパーでも、白い桃を扱い、とても懐かしく、嬉しくもあった。

今年は餅米の箱苗作りが、先になりましたが、昨年はこの親子で袋掛けをする体験から、スタートしたのです。

以前も触れた記憶があるのですが、毎朝、スマホでふるさとの浅口市の天気を検索するのが、これも朝のルーティンです。
朝のルーティンが多く、そのせいか、いいえ加齢で早起きをしています。

何とあさくちブルーはご機嫌斜めで、もしかしてと心配になりますが、私は東京で、然もベッド上で、唯々、晴れますようにと祈る想いでした。

きっと、月曜日にはブログで確認出来ると思っていたところ、何と当日13日の桃づくり体験がお昼にアップされていました。

良かったという想いと、みんなの真剣な表情と笑顔に、徐々に疲れが取れて来た様に感じるも、未だベッドのお世話になりながら、何度も、ブログに励まされた。

また、母校の色々な活動や自然を盛り込んだブログも、お行儀が悪いがベッドで母校との共有を楽しむと共に、改めて、今の私にとってはふるさとの母校のブログが何よりの治療薬だと思った。

2020年

6月

12日

格差社会を生きる

これまでにペーパーレス社会に、私は、引き出しが太らないので、あまりに抵抗感はなく過ごしてきた。

然し、テレワークやウェブ会議や新型コロナウイルスの感染防止の為に、必要かと思う反面、ドンドンそのウエイトが増えるに従って、私は、元来、機械にも弱く、デジタルも苦手で、いわば相性が悪いのである。

ひと段落したと思っていた矢先に、感染防止の為に、封書の遣り取りを控え、全てパソコン上での処理をする羽目になった。

その際に、印鑑もパソコン上の処理をしなければならない。
全くこの印鑑の処理は、初めてで、この段階で、私はプツンと我慢の限界を感じたのであると共に、何やらお上の方もその方向性に向かっている様である。

ふと、印鑑店はこれまた、「新しい生活様式」という一言で済ますのであろうか。

必死の思いで、添付書類として返信したが、私はドット疲れが出て、今後、この様な状態が進むと、出来る人と、出来ない人の格差社会を生み出すのではないかと、案じてしまった。

特に高齢者にも個人差があり、デジタル社会に対応する環境の住まいに住んでいる人ばかりとは限らないのである。

友人に話をしたところ、「高齢者や出来ない状況にある人にとって、本当に生きにくい世の中になったわね。とてもショックよ。出来ない人はどうすればいいの」と、逆に友人を傷つけてしまった。

相手を意識したり、比較したりしないで、自分の限界を知り、生きていくしかないと、私も近々、落伍者になる日が近いと、そっと心にとめて生きていくしかないと。

案外マイウエイの方が、健康上も精神的にも良いかと想い始めた。

2020年

6月

12日

待ち焦がれていた図書

新型コロナウイルスで、クローズしていた自宅に隣接する図書館がオープンしたが、取り敢えずは予約者のみが利用可能ということで、一刻も早く待ち焦がれていた図書から、連絡が入った。

その図書は3月に発売されたが、コロナの影響でストップしたままだった。
長年購読している日本経済新聞の1面のコラム欄担当の「春秋」の大島三緒氏による『「春秋」うちあけ話』である。

このコラム欄の多くをヒントにブログに書かせていただいた経緯もあり、とても興味というか関心を持っていたので、待ち遠しく、連絡を受けるや、図書館に直行していたのである。

特に、未だラジオ深夜便との縁は続いている状態だが、早速読み始めると、時代の流れや、思い出す問題等々、一晩で読み切った。

でも、直ぐに、返却する気持ちにはなれず、期限まで、楽しい時間を見つけた。
しっかり読み込見たいと思っている。

さて、今日は、黒柳徹子さんが、日本では未だパンダに馴染みが少ない時に、「世界で一番可愛い動物」と称えていた記憶がある。

その可愛い上野動物園のパンダのシャンシャン(香・香)の3年目の誕生日で、日本で迎える最後の誕生日で、年内には中国に帰国する約束だと、改めて、また、上野動物園の人気者に別れを告げる年なのだ。

何か、色々と新型コロナウイルスにばかり、気をとられている間に、刻々と正直に時が過ぎているのである。

2020年

6月

10日

ブルーに拘ってみました

天気予報で、今日が東京で最後の貴重な1日と報じている。
また、今日は「時の記念日」で、100回目の記念日とも報じていた。

10日前後が、梅雨の時期に入るが、今年も例外なく、明日から鬱陶しい日々が約1カ月近く続くのである。

先日断捨離をしていたら、引き出しの下の方から、日本経済新聞の日曜版NIKKEI TheSTYLEの2018年3月25日を見つけた。

「ジャパンブルー」の特集で、明治期に日本を訪れた外国人は、のれんや作務衣など日常に溢れた藍の景色をこう称えた」とある。

この特集版の約2ヶ月半の6月の未だ梅雨の最中にも関わらず、61年振りのふるさとの空は青く澄み切った青空だった。
その後、ふるさとの青空に魅せられたのは、その後3カ月後であった。

故に、3月には、未だふるさとの空を「あさくちブルー」と称する以前に、今を予想していたかの様に、直ぐに資料ゴミに出すはずだが、残っていたのである。

改めて、「青」について、私流の勝手な理論立てに関心を持った。
「青」は明るいが語源と知るが、ブルーデーなどと、サービスが矢張り二面性を持っている様に、深いものがある。

「サムライブルー」も、ネットで検索すると、詳細に説明されているが、日本サッカー協会に拠れば、勝利の縁担ぎの意味である。

勝色は嘗ての武将達が戦いに挑む時身に纏った鎧下と呼ばれる着物に使われ、k外国人が称えた所の藍染めによるものだそうだ。

ブルーをイメージカラーに採用している企業が多数ある。
6月の第3日曜日は「父の日」で、ブルーだと聞いている。

やはり、ある意味でふるさとの空を「あさくちブルー」も、一つの町イメージカラーにいつか、ふるさとの多くの人に心にとめてほしいなあと、東京から秘かに期待し続けているのだが。

いつか「あさくちブルー」のふるさとに帰れる日が来るだろうと、東京の空を見上げる日が多くなった。
今は残念ながら、私がふるさとに時を刻む日には至っていない。

2020年

6月

09日

ビルの谷間に咲く真っ白い紫陽花

久し振りに、真夏の日差しを避けながら、大手町迄出掛けた。
大手町の長年来のプロジェクトも、オリンピックを意識してか、ほぼ、工事の音が聞こえなくなった様に感じた。

凡そ、去年の暮れから自粛生活を併せると、半年程のブランクがある。
スッカリ、その期間に、目的地に着くまでの道程が変わっていた。
思わず、駅員さんに尋ねる浦島花子の私である。

用事が済んで、確か、あのビルの谷間にある植木はこの季節は紫陽花だったと想い、楽しみを抱え、遠回りをしたが、期待を裏切らない大好きな真っ白い紫陽花が見事に咲いていた。まさに見頃と言える。

気がつくと、高層のビルとビルの間を、涼しい風が通り抜けている。
此の所の生活に疲れていた私を、心身ともに都会のど真ん中にいても、優しく包み込んでくれた。

暫く、私はその場で、白い紫陽花に語りかけていた。
どんな状況になっても、東京での生活しか無いのである。

今年の初めに印刷した名刺に、私は予感の様な想いが過ったのである。
恐らく、もう名刺不要の生活になるであろうと。

未だに、生活のリズムが取れない為に、身体が抵抗しているだけに、来月の精密検査も、恐らく、一病幾つになっているだろうかと、案じているが、その時はその時と思っている。

そんなことを紫陽花に語りかけていたが、私は白い花が好きで、特にこの季節の白い紫陽花には心が休まり、和むのである。

2020年

6月

07日

母校は今も晴耕雨読を学びに

昨年から、母校のコミュニティスクールで、私も毎回、未来の子どもたちを見据えて、学校、地域(ふるさと)の方、家庭の3本柱で、育てていくというシステムが、全国各地で夫々が、良き企画案で、凌ぎを削って頑張っているのだ。

私も、その一人として、相変わらず途轍もない企画を考えるのが、何よりの恐らく年齢と頭の回転上、最後のお手伝いであり、生き甲斐だった。

ところが、令和2年の春先から、良からぬ「新型コロナウイルス」の出現に、私は生き甲斐だったコミュニティスクールの学校運営協議会にも帰れなくなったが、母校のブログで、自分の母校への想いを共有している。

昨年は、稲刈りから始まった「ほりでえ☆スマイル♡キャンパス」と称して、土曜日に親子教室で、昨年の美味しいお餅を今年は、最初から最後まで、1年を通して「美味しいお餅が出来る迄」を学ぶという、「もち もち いきいき こめこめくらぶ」として令和2年の最初の日が、6月6日に、お米作りの地元の名人の指導のもとに、先ず「箱苗作り」の日だった。

どうしているだろうかと想いを馳せていたところ、偶然にも日本経済新聞の日曜版の6月7日に「令和の晴耕雨読」というタイトルで、「広い青空の下で作物を育て、雨の日は疲れた体を休めて物思いにふける。そして農作業を通し、社会の新たな扉を開く。令和の時代の晴耕雨読だ」とある。

三面に亘る記事と共に写真が掲載されている。
全ての写真は、笑顔、笑顔で埋め尽くされている。

きっと今頃は、我が母校も笑顔、笑顔に溢れている頃だなあと、想いを馳せていた。
本来、私も病弱ながらも、田植えをした思い出がある。
自然との共生生活が、都会で生活している私には、土や草や雨の匂いを懐かしく思うと共に、時々、都会の生活に限界を感じる時がある。

新型コロナウイルスとの共生生活は、御免である。

2020年

6月

05日

ビフォー・コロナとアフター・コロナ

今夜はストローベリームーンだと、期待していたが、中々納得のいくチャンスが来なくて、焦りを感じていた。

ベランダと部屋を何度も往復していたが、友人から封書が届いていた。
イライラしていてもと、封書を開封したところ、私もかつて御縁があり、尊敬している方が、執筆していた。

人柄から、実に明確に著している内容に、ストローベリームーンばかり追いかけるのを一時ストップして、読み始めた。

氏の記載した内容に拠れば、今後、アフター・コロナの世界になると、三つの大きな変化になるであろうと提示している。

「本当に価値のあること」を知る『価値観の変化』、次に「これまでの社会体制では
克服できないことが明白な社会」になるという『古い体制の破壊と淘汰』、つまり『新しい社会の誕生』と結んでいる。

古い体制に慣れきった年齢の私には、メディアで「新しい生活様式」と、1日に何回も耳にするが、夫々の立場で、生活様式が異なっている中で、最低の「新しい生活様式」は、「3密」の続く中で、一番は衛生状態をしっかり守っていくという生活は、これまで通りの生活スタイルである。

インフルエンザの流行時は、「うがいと手洗い」を、そして、日本人はマスクに対する抵抗が無いが、今年は夏に向けてのマスク着用は初めての経験と言える。

もう、それ以上、オンライン生活も、自分にとって最低限にしたいと思っている。
直ぐにネットで検索する習慣も、今の私には、情報過多で疲れるから、適度にと自分にストップをかけ始めている。

楽しい話題だけを選択しようと思っていた時、ストローベリームーンがクッキリと顔を出してくれた。今がシャッターチャンスだ。

人生も各人のベストシャッターチャンスを見つけようと想えば良いのではと、暫しストローベリームーンに語りかけていた。

2020年

6月

04日

病院ボランティアを辞す

数年前から、私は凡そ30年近く続けた病院ボランティアの引き際を考えていた。

亡くなった母親からの宿題と受け止め、気が付いてみると、私にとってライフワークの一部になっていた。
30年近くの時を経て、医療にも変化があり、特に最近では、医療技術の進歩により、入院期間が短期間で退院出来る状況になってきた。

高齢者の看取りまでの病院や、緩和ケア病棟での「お話し相手」としての活動の機会が多く、病気の方から、大変多くの学びがあった。

病気の方という目線でなく、ご縁という想いでお話をして来ましたが、気が付くと私が元気を貰っているのである。

亡くなった母親は、私の性格を見抜いて、病院ボランティアを通して、協調性や忍耐力の乏しい私に病院ボランティアを宿題として残して行ったのではないかと思っている。

実は、30年近く続いていた自分に、もう宿題として卒業しても良いのではないだろうかと、これまで抵抗無く活動をしてきたが、少しずつ疲れを覚え始めた。

ボランティアが健康的で、体調もベストでなければと思って来た私は、限界を感じ始めたのである。

丁度、今年の3月で後期高齢者の仲間入りをしたのを機に、年内にと決めていた。
6月4日をもって、病院ボランティアを辞する決意をした次第である。

次の「新しい生活スタイル」迄は考えていない。
今、私には溢れる情報社会に無理せず「ケ・セラ・セラ」で良いと。

2020年

6月

01日

紫陽花が主役の6月が始まる

先週末、久し振りに肉筆で書いた手紙に、私は心が落ち着いているのが分かる。
然し、何と綴っていく文字が、想像以上に下手になっていた。

想いと文字も、嘗ては同じスピードで便箋上に進んでいったが、何か滑り方がぎこちないなあと、正直、もう一度、私にとっての「新しい生活スタイル」と決めた。

先月末で、ふるさとへの区切りを付けたと、ある種の安堵感があった。
「新型コロナウイルス」によって、致し方のない事情で、心は折にふれ、ふるさとを思い出すが、実質的には、帰れないのである。

何時迄も、もしやもしやと期待感を持っても、恐らく確定するには至ってない。
こんな状態は、私の体調に一番影響を及ぼす可能性があるからである。

さて、先月から解決しなければいけない問題を抱えている。
今月は、その課題を解決する月である。

今朝の日本経済新聞のコラム欄の「春秋」に、与謝野晶子が「六月は酒を注ぐや香を撒くや春にまさりて心ときめく」に、私は梅雨時の6月にも様々な感じ方があるものだと思い、文末に、久し振りに俵万智の「思い切り愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花」の方が、何となく微笑み、心和む。