2020年

7月

31日

慌ただしく過ぎた文月

今朝、何気なく手帳を開いて、先月の水無月もかなり、予定が入っていた記憶があるが、今月の文月は、久しぶりに現役時代を思わせる程に、紙面に書き込まれている数の多さに、驚いた。

 

然しながら、悪い気持ではなく、今月は、ある意味で遅まきながら、コロナ禍において、私なりの「新しい生活スタイル」に対しての、それなりの

形が出来上がるうえでの、必要となる部分の整理月だったのではないだろうかと、改めて先月からの経過を見て、そう結論を出した。

 

令和2年早々に始まって、新型コロナウイルスによって、当初は苦痛の日々が続き、自分でもこんなに精神的に弱い人間かと情けなく思ったもの

だが、やっと、コロナ禍においても、自分らしさを取り戻せた。

 

母校の小学校も、今日で例年より短い夏休みに入る。

よく、変則的な1学期を、学校も家族も、そして子ども達も、本当に頑張った様子が、ブログから伝わってくる。

 

さて、梅雨明けも間もなくの葉月の毎日を、如何に暑さに負けずに楽しく

過ごしたいものだ。

2020年

7月

28日

ふるさとを共有したくて

今日は、母校の令和2年度の学校運営協議会の日であるが、東京在住の私は、諦めざるを得ない。

 

前日iPadを手放して以来、やはり、心が何となくざわついていたが、その想いを振り切りたくて、前日の27日に、不要不急の外出ではなく、友人も

ちょっとお疲れ気味だったので、「とっとり・おかやま新橋店」のアンテナショップにランチタイムのランチタイムに誘ったところ、急にも関わらず、満面の笑顔で、私の想いに付き合ってくれた。

 

友人も我慢、忍耐の自粛生活に辟易していたようで、本当に楽しんでいる様子が嬉しく、また、ふるさとのランチタイムと桃のスイーツを堪能してくれたのが、嬉しく、思った。

 

夕刻、今頃、母校では会議が始まっている時刻だと、気持ちの上では私も共有している想いでいた。

 

26日に始まり、27日、28日の三日間は、私なりの「Go To ふるさと」を過ごした。

2020年

7月

27日

相棒のアイパッドにお別れ

かれこれ5年近く、iPadのお世話になりました。

 

今日お別れしたiPadは、2代目で、いつも私バッグに存在感を占めていた

相棒で、ふるさとをはじめ、講師依頼で地方に出張の際も手放すことなく

よく、活躍してくれた。

 

しかし、今コロナ禍の時代に逆らうようであるが、歳のせいか、重さを感じ始め、スマホで済む程度に、私の生活スタイルにも変化が生じてきた。

 

大体が、断捨離が生きがいでもあり、趣味ともいえる私は、「シンプル イズ ビューティフル」が目標である。

 

考えてみると、どうも、このシンプルが心身共に良いようだ。

今後は、パソコンとスマホを相棒に、これもある意味で私の選んだ「新しい生活様式」と納得している。

 

2020年

7月

26日

ふるさとの桃

今年は、「晴れの国 岡山」そして私のふるさとは、4日のうち3日は「晴れの日」のはずが、ご機嫌斜めで、日照不足で、糖度が基準にになるまで時間がかかったようです。

 

そんな厳しい状況の中で、懐かしいふるさとの桃を、心温かい桃農家の方から届きました。

 

受け取るや、桃の香りがしています。

懐かしく、開墾した中に、「岡山の光と水と空気を、感じとって頂ければ幸いです」と。

 

さらに「今年も前の川では、源氏ボタルが乱舞してましたしてました」と

添え書きに、夜空には瞬く星、源氏ボタルの乱舞に、故郷の夏を懐かしく

想いを馳せていました。

 

部屋中が、故郷の甘い桃の香りに満ち、幸せな時を過ごしました。

2020年

7月

25日

久しぶりの湯島天神へ

友人が昨日から、湯島天神の前にある、湯島ハイタウンのギャラリーで、

グループ展を開催中なので、毎日、欠かさず1万歩のノルマを達成しているので、作品もみたいし、小雨の湯島あたりも風情があると、出かけた。

 

まずは、コロナ禍の終息を願って、湯島天神にお参りをするが、かつては

楽々と登っていた階段が雨のせいもあり、いささか怖い思いと、用心深さに、やはり歳だなと思い、がっかりした。

 

友人の作品は、相変わらずエネルギーに満ちた作品で、いつも彼女の作品からパワーをもらっている。

 

暫く創作の意図や、作品に込める想いと情熱に、楽しくおしゃべりをして

帰る際に、かつて湯島ハイタウンには、私のふるさとの浅口市出身者が、また、銀座で落とし物をした時、有名な銀座のママさんが預かってくれていたりと、思い出のある地です。

 

管理人さんに伺ったら、すでに亡くなられたとのことで、やはり、時を

重ねるごとに、思い出も遠くなっていくものだと、思った。

2020年

7月

24日

25年間お疲れ様

およそ、25年使用していたファックス、スキャナーもできるという当時としては、花形だった固定電話が、感熱紙は詰まるし、留守電話はご機嫌

斜めになって、とうとう、これも、「新しい生活スタイル」への、切り替え時と、実にシンプルな固定電話に買い換えました。

 

わずか、3センチ大きいために粗大ごみになり、世間では4連休というのに、24日が回収日になりました。

 

何と、25年前の固定電話の重さに、かつて、コピー機も初期は大きく

重かったと、時代の流れを感じました。

 

そっと、お休みのところ、わざわざありがとうと一言、回収車の人と、電話機の双方に、気持ちばかりの私の感謝の気持ちを添えました。

2020年

7月

23日

忍耐の4連休が始まる

東京都民には、コロナ感染の勢いが止まらず、おとなしくステイホームに

戻ったのと同じである。

鬱陶しい梅雨独特のすっきりしないので、今日は「雨読」の日と決める。

 

7月11日の日経新聞に、日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介氏が「今を読み解く」で、コロナ後のまちづくりをテーマに数種の書籍が紹介されていた。

 

そのうちの一冊に関心を持った私は、隣の図書館に午前中依頼したところ、午後には私の手元に、しかしなかなか、読みたいのに読めないといった心境だったので、エイとばかりに読み始めた。

 

「きみのまちに未来はあるか?」と、岩波ジュニア新書から、徐本理史・佐無田光の二名の著書によるもので、今、私が母校の小学校でのコミュニティースクールのヒントになればと、思ったからである。

 

その土地が持つ伝統・文化・地域性といわれる、住み慣れている住民には

気づかない「根っこ」を、著者は「宝物」を育てて、未来へと繋げていくのが、必要だと提案しているのである。

 

読み終えて、私が地元の人が気づかなかった青空の素晴らしさを、「あさくちブルー」と称したのは、まさしく、間違いでなかったと。

 

ジュニア新書になっているが、私は、各地で「地域おこし」や「移住」等の担当の方には、生意気なようだが、ぜひお勧めしたい一冊である。

2020年

7月

22日

子どもの元気な声を聴きたくて

一万歩の散歩も、ただ歩くだけでは、続かないと思って歩いているうちに

何と、地元の小学校を3校もあることが分かった。

 

今の私には、元気で駆け巡っている子どもたちの姿に、思わず、ふるさとの小学校の子どもたちが重なって、暫く立ち止まって、見続けている。

 

ふるさとの浅口市は、岡山県でも一番小さな市ですが、実は、東京の私の

現在の住まいは東京都区内で、面積が一番小さく、区内の形がハートに似ているので、温もり感じます。

 

面積は小さいのですが、子どもたちの声はふるさとの母校の小学校と同じように、とても明るく元気な声が道路まで聞こえてきます。

 

ふるさとの長年PTA会長さんをなさった高齢の方が、いつも「学校へきて

元気な子どもたちの声を聞くのは、ええもんじゃのお」と。

 

私も、ふるさとと東京と離れていますが、子どもたちの声はいつ、聞いても私に、パワーと、スイッチが入ります。

 

母校の小学校のブログで、子ども達の笑顔と元気な声と繋がっているのが、何より、コロナ禍のど真ん中にいます私のビタミン剤です。

2020年

7月

20日

アンテナショップで懐かしむ

東京の毎日の感染者数に、ついナーバスになってしまう。

本来ならば、今月28日に母校の小学校の学校運営協議会に出掛けられる処、いつまで続くか不透明なコロナ禍で、ふるさとには帰れない。

今日は、先月来の奥歯の痛みの治療で銀座に出掛け、お陰様で恢復し、語尾午後も予定があったので、かつて美術の仕事で入居していたビルは、数倍もの大きな近代的なビルに建て替わっていた。

嗚呼、これで、 又、私の歴史が記憶だけで無形の存在になった。

そうだ、東京圏から飛び出せない私は、ふるさとのアンテナショップの存在に気付き、立ち寄った。

懐かしいふるさとの味や商品が、有ります。有ります。

先ずは、母校の小学校の地である「浅口市」の名産品を知らず知らず探し、見つけた時は、暫く手に取って、ふるさとを思い出していた。

今後、機会を見つけ、アンテナショップで、ふるさとへの想いを達成出来ると気付いた私は、心が和んでいた。

2020年

7月

19日

300歩から1万歩へ

私は現在マンションの5階に住んでいる。
ウイズコロナといわれ、毎朝、1階のポスト迄、新聞を取りに行く際に、往復5階まで階段を利用している。

僅か300歩に過ぎないのである。
散歩の効果に気付き、最近はその距離を伸ばして目標を1万歩に決め、雨にも負けず、風にも、暑さにも負けずに始めてみると、目標を達せないと、何か心が騒つく様になって来た。

一昨日、昨日と重い雲と、時折おり、雨が降ったりするので、転倒防止に大きな傘を持ち歩きながら、雨が止むと、傘を持って目標達成に出掛けるのである。

歩きながら、「Go Toトラベル」キャンペーンで、新聞紙上には堰を切る様に旅行会社のキャンペーンの広告が多く目についたが、今朝の新聞には、姿を消している様に感じた。

実に、旅行会社の敏感な反応に驚くと共に、案じていた東京を始めとする感染の広がりに、第2波に及ばない様、案じ、自分の身は自分で守る以外に今のところ、ワクチンも開発途上である。

WHOでも日本の「3密」に注視して「3C」と公認されたそうだ。
散歩中に、ふと、都民はこのまま続けば、 都内から他県に移動出来ないまるで「籠の鳥」だと思った。

唯、この「籠の鳥」には、昔の遊女の有様に例えられた一説もあるが、私の干支は「酉年」だから、 今の状態は正に「籠の鳥」と言っても良いだろうと自分で一方的に決めている。

然し、目標の1万歩から、色々と思いがけない頭の中の引き出しが開いて来る不思議さを、結構楽しんでいる。

2020年

7月

16日

整理も最終章が近い

取り敢えず、私は兼ねてより後期高齢者の75歳の前に、74年間の人生の出来る限りの整理をしておきたいという目標を70歳の頃から考えていた。

理由は分からないが、私特有の何と無くそんな気持ちを強く持っていた。
アルバムから、趣味の関係に至る私を取り巻く凡ゆるものに対して、取捨選択をして置こうという発想から、友人から趣味とまで言われる断捨離に至るまでである。

特にスピードが年を追って速さを増す社会においては、いつかは役に立つものとの立たないもの、残すもの、残さなくていいものの棲み分けというか選別が必要なのは、不可欠な条件である。

唯、不思議に、大切と判断したものは、セピア色になっても残っているから、自分でもこれは私の特技と言っても良いのかと思う次第である。

この文月である7月が、一つの転機とも取れる整理の最終章に近ずいているのを感じ取っている。
其れも、自分からアクションを起こすわけでは無く、自ずと纏まってくるのだ。

新型コロナウイルス禍において、自分でも驚く程の醜態の時期を過ごし、今は、それなりの新生活のスタイルが見えて来た。

それには、私の性分で、 目の前に過去のものが山積していると、いわば気が散るというか目障りなのである。

これまで私は拙著の際も、パソコン以外にものは無く、頭の中に存在したものに、私なりに蓄積された残されたセピア色の資料が浮かべば、引き出しから取り出すと言った方法で来たので、今後、この新しい生活スタイルに不必要な資料、洋服等、そして相棒のアイパッドとの別れも近い。

但し、母校の小学校は、大切に心に留めておきたいし、整理をしたのはそれ以前のものであり、今の私にとって、例え、東京に居ても、インターネットで繋がっている。

出来れば、来年の3月には、もう一度母校の小学校に帰りたいと願うのみである。

2020年

7月

15日

梅雨寒に更に寒くなる

昨年クーラーのクリーニングのチャンスを逸した。
何と午前8時にとの希望に応じたが、珍しく梅雨寒の日だ。

コロナ禍を案じて、毎日、窓を開けっ放しの日々が続く中、約一時間半程の作業中は気にならなかったが、クリーニング後、業者さんが一定の温度を一時間程、寒いかも知れないが継続して下さいと。

黙々と丁寧に作業をして貰ったのは良いのだが、清掃後にジッと部屋にいると、深々と私の体が冷えて来るのが分かる。

然し、綺麗になって快適な生活には、一時間我慢するつもりでいたが、遂に熱いお茶を飲んでも不可抗力で、近所のコンビニでカップラーメンを買って来て早速食べて、ヤット冷え切った体が温まった。

何かの巡り合わせか、7月は、不要不急の外出では無く必要な予定が入っているので、ここで風邪を引くわけにはいかないのである。

心までクリーニングしたようで、寒さの代償も前向きに考えれば、これも結果的には良かったと思っている。

2020年

7月

13日

ブランドも変わった

先日「電話で合点」した友人から、又興奮気味の電話がかかって来た。

受話器から、開口一番「ねえ、貴女、時間があるし、元々、捨て魔けど、これまでは講師依頼や、色々と人と会う機会もあったけど、もう、先日話したように、殆ど着る機会も無くなった来たから、私も断捨離とまでは行かないけれど、先ず、スーツとか、将来を考えて購入した新品も、思い切って、もしやとリサイクルショップに相談した処、心地良い返事で訪問してもらったの」

「嗚呼、それで、どうだった。買い取ってくれたの? 」

「ブランド名のスーツやセーターでも、値段は付かなかったのよ。いくら掛け合ったけど、駄目だったわ。一度諦めて整理する決心をしたのに、これから古布の資源ごみとして回収日に出すしか無いのね。何か、又、貴女に電話したくなって、お騒がせ老女になって来たわネ。世の中の変化のスピードについて行けそうも無いわ。更にコロナにも神経質になっているし、『つ・か・れ・た』」

「青い山脈よ、古い上着よさようならの世界よ。実は、私は、 民間で無く、区政の環境リサイクルにと思って準備しているのよ。資源ごみに出す迄に、トライしてアウトになったら、其れこそ、さようならでいるわ。でも、私達の世代のブランドも、感情的にもう一度見直して見ても良いのでは無いかと思うけど」

「そうだったわ、同い年でも良く頭が回るわネ、これからは事前に相談するわ。宜しくね、有り難う、お騒がせ・・・」

私は、興味もあって、散歩がてら出掛けるつもりでいる。

明日は、社会に反比例するかの様に、使用頻度が少なくなった2代目のアイパッドを、愈々手放し、パソコンとスマートフォンを相棒と決めた。

2020年

7月

12日

お墓参りのバッグには

今日は、72候の「蓮始開(蓮始めて花咲く)」と知る。

そう言えば、母校の小学校の大賀はすが、葉は元気だけれども今年も花は咲かなかったというブログを思い浮かべながら、両親の待つお墓参りに出掛ける。

眩しい程の梅雨の晴れ間に、墓石を触ると、手が焼け付く程だった。
さぞかし、喉も渇き暑いだろうと、タップリ水をかけながら、バックにしのばせて来た父との思い出の先日のプレゼントをそっと取り出し、語りかけた。

気のせいか、蝶々が私の周りをクルクルと飛んでいる。
恐らく、父もどんなにか懐かしく喜んでくれたと、私は勝手に思い込んでいた。

お墓参りに行くと良いことがあるというが、私は、事前に、素晴らしい贈りものをいただいたのである。

さあ、又、リセットして、コロナ禍の東京で、これから変えるべきものと変えないものとの分別をしようと、改めて想った。

2020年

7月

10日

人生最高のプレゼント

先日の友人では無いが、そろそろ私はこれまでの相棒の一つのアイパッドの使用度が めっきり減少傾向にあるので、そろそろお別れを考えて、不必要な内容を整理している時だった。

朝10時過ぎに、お届け物ですとのアイフォーンに、心当たりが無かった。
ドアを開けて、伝票の依頼主を見て、心臓が止まる程ビックリする方からだった。

何だろうとドキドキとしながら、梱包を解いた処、声を失う程の驚きと、実は兼ねて欲しいなあと密かに想い続けていた物だった。

まさか、望みが叶うとは、涙が溢れて、溢れて止まらなくなった。

もう一つ、昔、父の出張先での懐かしい味を思い出させて貰った。

これぞ、心のこもった人生最高のプレゼントである。

唯、「ありがとう」ではいい尽くせない程のプレゼントである。

でも、今の私には「ありがとうございます」しか、見つからなくい。


2020年

7月

08日

電話で合点

朝から 名刺の整理をしていた所、固定電話に、これまで何時もメールで連絡が入る全く、今年私同様に後期高齢者を迎えた友人で、活動の内容も類似している。

その友人から電話がかかって来るとは、何かメールでは届かない想いを話しかけたかったのか、まさか病気で入院するなんてと、次の友人の声を聴く時間が長く感じた。

待ち切れず私は「何かあった?」と切り出した処、「実はこんな恥ずかしい  内容の話を聴いてくれるの、貴女しかいないし、これまでの活動や仕事も同じだから」

「そうね、同い年で実によく似た生活というか人生仲間だものね」
「貴女、昨年あたりから、講師依頼とか、活動の場からもお声がかからなくなっていないか、もしかしたら、私だけかと思ってね」

「貴女と一緒よ、やはりよっぽどの専門技術や能力が無いと、社会は年齢から世間ではもうそういう年齢になったと私は思っているわよ」

「やっぱり、貴女も同じで気持ちが楽になったわ。ところで最近、私ね、新聞やニュースで、カタカナ語や英語の頭文字を使った省略語やコロナの話題ばかりだし、専門用語も増えて、分からないので検索すると、益々迷路に入って行くばかりで疲れ果ててしまったけど、貴女は相変わらず、トコトン追っかけて頑張っているの」

「貴女と全く同じよ。私は体力オーバーするとシグナルが出るし、既に一部にそのシグナルが点滅しているから、自分の能力と体調に気を付けないといけないので、自分に相応しい生き方をしようと思っているわよ。それで良いと」

「やはり、貴女に電話して良かった。私も貴女と同じ様に無理ない生き方をするのがある意味で、人生の敗者と思ってたが、合点よ。有り難う、じゃねー」

嗚呼、今日も名刺整理が予定通りに進まないが、私も内心、同じ仲間に気持ちが何と無く穏やかになって行くのを感じた。

2020年

7月

06日

何故か符合する

ちょうど2年前の7月6日、「晴れの国」で、降雨量もくない岡山県倉敷市の真備地区を恐怖に陥れた大洪水から2年を迎える。

実は、その約3週間前、61年振りのふるさとへ、岡山からわざわざ、在来線を利用しないで、タクシーで、田植えの済んだ懐かしい田園風景を見たく、カエルの合唱も聞けるかと、心を弾ませていた。

然し、私は、61年振りに帰郷したという途轍も無い行動が、大洪水の遠因になったと様な重苦しい気持ちが過った。

正直、これまでふるさとの存在す忘却の彼方の存在であった。
恐らく、一生涯、ふるさとに帰る予定や想いは無かったからだ。
友人が、毎年、お正月や同窓会に喜ぶ姿が理解出来なかったというのが私の正直なふるさと感といえる。

然し、自分でも不思議なのであるが、何の抵抗も無く、ふるさとへ帰ったのである。
その後の私のふるさとへの影響は一概に筆舌にでは語り尽くせない心の拠り所と変化していくのである。

かつて、尊敬する哲学者の鷲田清一先生が、災害は何故か不思議に符合するといった内容に触れていた。

東日本大震災の発生時刻の早朝46分、東日本大震災の日中の46分、そして、中国地方の大水害、更に今現在の九州地方の大水害といい、符合している。

更に、今年は新型コロナウイルスも重なり、臆せず人の能力の限界を試されている一方で、謙虚さも問われている様に思うのは私だけだろうか。

2020年

7月

03日

名医に救われる

コロナが日本中でナーバスになっている時期に、何とパソコンでもまさか新型コロナウイルスに感染したとは思いたくないが、私にとって必要なアウトルックが機能しなくあり、その期間の最も必要としている資料が、消失してしまったのである。

一社は白旗を掲げたので、記憶にあった名刺で依頼するとこと、何と4時間近くをかけて、見事に修復してくれた。

未だ若い見るからに、大丈夫かと私の中では、不安感もあったが、所謂「藁にも縋りたい」想いに、若い技術者は私の心配を払拭してくれた。

唯、彼には「貴方は名医ね、有り難う」というしかなかった。

今後、彼から学んだのは、相手の希望の為に、持てる努力を惜しまず、期待に応えてくれたという、助けを求めている人に如何に最善を尽くすという要望に応えるスキルと忍耐力に、私は頭が下がった。

「有り難う」以上の感謝の言葉は見つからない。

2020年

7月

02日

午後3時から4時の東京の空

貴重な梅雨の晴れ間とは言え、東京の午後3時から4時の時間帯の空は、ふるさとの素晴らしい「あさくちブルー」にも、劣らないほどの清々しいブルースカイに魅入られ、ベランダで、空を見上げていた。

     

東京の青空から、先月9日に「あさくちブルー」は永遠にというブログを公開したが、これには、余りのふるさとの温もりに甘えていたと想う気持ちを感じた。


ある意味で、故郷に新型コロナウウイルスに始まって以来、ふるさとを自分の心の逃げ場にしてと気付いた。


17歳から家庭の事情で、既に東京は逃げられい東京が、私の居場所である。

言うなれば、心のふるさとと、現実の自分の生活拠点を区別しなければならないと想ったのである。


東京の青空のもと、永遠のふるさとと、今現在の第二の生活拠点で、生きなければならないと想った東京の青空であった。

2020年

7月

01日

ウイズスマイル

令和2年という月を先日で終わり、残りの半 年を如何に生きるかと宿題が突きつけられている。

私は、コロナみ対しては夫々の専門家に任せ、如何なる時にも笑顔を欠かせない毎日に、後ちょうどの折り返し地点の令和2年の後半を過ごしたいと想っている。

恐らく、母校の学校運営協議会に参加する機会は、今後のコロナとにかかっている。

現在のコロナの衰えが見えない状況下では、リスクが大きい。
然し、医療関係者の昼夜を徹する努力で、いつか、また、ふるさとに帰れる日が来るだろうと信じている。

然し、残念ながら、その日を遠いであろうと推察出来る。
肉親の少ない私にとっては、母校はまさしく実家であったが、コロナによって、それも奪われてしまった。


「ただ今」「お帰りなさい」と、母校での温もりのある挨拶もできなくなった。


昨日の案じていた精密検査の数値では、何の問題もなくパスした。
ということ、 年齢的には限界を認めているものの、まだ、やり残した役目が何か未だあるのかも知れないと思った。

然し、今はまだ、明確な答えは見つかっていないし、見えないが。

確かに、母校の学校運営協議会の委員としては、残すところ9ヶ月は残っているが、感染数の少ない岡山県というより、我がふるさとは、真っさらである。

例え、私個人の母校に帰りたいという願望を満たすだけで帰郷するのは、自粛しなければいけないのである。

それが、私を育んでくれたふるさとの唯一の出来る感謝の気持ちだと思っている。

私は、母校大切にしている「笑顔輝け」を卒業生の一人として、「ウイズスマイル」で、前向きに新しい生き方を見いだせればと思っている。