2020年

3月

31日

コロナ情報に堪える

刻々とコロナの情報が、絶え間なく発信されている。
悲しい過去の経験から、情報を止めどなく追求している自分に、何処まで耐えられるかか、不安が募る。

然し、病弱な私はどうしても敏感に成らざるを得ないのである。
これ迄は固定電話を留守電にセットしていたが、特に一人住まいや、些か医療に関わって来た私への生の声を求めている人の如何に多いかを、私は自分の平常心を保つだけで精一杯だが、矢張り、不安に思っている人を見過ごす訳には行かない。

不安な時、人は声なき声のメールを求めないのである。
矢張りオーソドックな生の声から、私も相手の気持ちを汲み取れる利点がある。

本来、人は持って生まれた自然の姿に帰る時を、コロナを通して、ある意味で、現代社会のシステムに取り残された人に対しての警鐘かとすら思っている。

然し、私に今回のコロナ等の辛さを訴えて来る人に、ケアする限界を感じているが、もし、私の一言でリセット出来るのであればと、自分も同じ想いを共有している。

曽て緩和ケア病棟の40代という若さで、入院した方が、「私が、思いも思わないガンで、間も無く家族との別れが迫っているが、全てに訳があるんだよね」と言った言葉に、私は絶句したのを思い出した。

恐らく、想像以上の長期にわたるこの見えない新型コロナウイルスについても、何らかの人類に対する警鐘として、引き受けるしか無いのでは無いだろうか。

私はまず、自分に厳しく感染者にならない様に気を付けるしか無いのである。
それは、あらゆる意味で、今の時代に対して、奢りにも近い時代への謙虚さに気付く様にとの警鐘に想えて仕方ないのである。

2020年

3月

29日

旧暦で今日は私の誕生日

何と無く新暦の誕生日を迎えた時に、旧暦の誕生日はいつだろうと頭を過ぎった。
早速検索すると、今日3月29日と分かった。

そうか、2回誕生日があると思うと、これまで新暦の誕生日に向かって遮二無二、色々と、前期高齢者に別れを告げようと頑張り、些か体調にシグナルが灯り始め、これは拙いと、最低限のの目標のホームページのリニューアルだけは完成したく、27日に完了したと思って、確認をする与力が無く、放置していた。

新型コロナウイルスの感染防止に不要不急の外出は控えるという事態に、私としてはルンルン気分で、自分のホームページをタッチして、恐らく瞬時に血圧が上がったであろうミスをしていた。

空からは白いレターと言われる雪が降っているではありませんか。
気温も下がり、甚く落ち込み、どうして、確認をしなかったのという後悔に、コロナショク成らぬコロナ鬱 の状態になってしまった。

本来であれば、直ぐに訂正する所だが、こんな不安定な精神状況の時は更に、失敗の上塗りをする危険性を恐れ、落ち着かないままスルーすると決め込んだ。

やはり私はアナログが心身共に良いのかも知れないと改めて、思って次第である。
実は、その想いを察するかのように、3月29日の日本経済新聞の日曜版の「NIKKEI The STYLE」に「手書きの愉しみ」という特集記事に、気持ちがスッキリした。

記事によれば、「書くことは人間が太古育んできた文化だ。物事を記録するだけでなく、人々は文字を書くことで心を癒し、考え、胸の内の思いを伝えてきた」とある。

予てからデジタル疲労の私は、正に心を癒されたのであるが、ホームページは相変わらず放置したままで、いる。
誕生日が二度あるなんて喜んでいる場合では無く、お粗末な結果を残してしまった。

2020年

3月

24日

ひたすら鼓舞するも

先週の木曜日19日のホームページノートのリニューアルに失敗と、、コロナストレスに、とうとう翌々日の土曜日に病院にいく。
明確な症状はないのであるが、珍しく精神的に立ち直れない自分に、何て不甲斐ないのだろうと情け無い気持ちが強くなる一方だ。

ドクターに事情を話すと、年齢からいって念の為に胸のレントゲンを撮るも、異常無しである。
これまで順調にだった血圧が高くなっているとの症状のみであった。
最近、私に関わっているドクターは、全員が全員、口を揃えて「しっかり休養をして下さい」でお終い。

 つくづく、私はどうやらデジタルとの相性が、体調に影響する程に厳しい 存在だと、jき 自分の身の丈を弁える生活に方向転換しなければならない「能力限界年齢」に達したのではないだろうかと、思い始めている。

気分転換には、断捨離で、これまでの人生の清算ができ、 次々と未練から、すっぱりと諦め鋏からの断裁の音だけが部屋の中に流れる。
その鋏の微かな音に、いつしか自分の心の整理がつき、心が鎮まって来る。

そんな数日間を過ごす一方で、 今夜一晩寝れば、明日25日には、懐かしい故郷の母校 が待っていてくれると想いで、ひたすら、今のやり場の無い辛さにも、 灯りが見えてくるから不思議だ。

恐らく、これまで頑張って来たつもりの都会での生活に疲れ切ったのである。
数年掛かって考えて来たターニングポイントが、今回の挫折で、はっきりと私の進むべき優先順位が明確化されたと思うと、体調を崩すのも、一つの指針になってと、考えられるのである。

何たって、明日はきっと晴れて「あさくちブルー」に会えるのだから。

2020年

3月

20日

お墓の前で

昨日のホームページのリニューアルの失敗で、未だ疲労感が残っているが、雲一つない澄み切った青空の素晴らしい彼岸日和である。

身体が重いからといって、お墓詣りをスルーする訳にはいかない。
準備をしている時に、日本経済新聞の夕刊に各界で活躍している人達が、毎日交代で「あすへの話題」というコラムがある。

そのメンバーの一人に作家の嵐山光三郎氏も連ねている今月3月7日「忘れる電話番号」と題した、後半部分に、思わず、興味を持った。

恐らく有り得ないとは分かっていても、何と無く忘れ難い内容というか、着眼点に私は例の如く鋏で切り取って置いた。

改めて、そのコラムを読み込むと、各新聞社独自名つけ、調査しているRDD方式といわれる「無作為標本抽出方法で、直訳すると無作為番号架電と検索して知った。

嵐山光三郎氏によれば、他界した友人に、氏の表現でRDDを霊界通信と表し、その「霊界通信なるシステムができて、番号の前に01019984・・・・(レイレイ緊急発信・・・・)と9ケタの番号を押すと、天界の友人につながるだろうか」と結んでいる。

一瞬クスッと笑ったが、妙に真実味も感じた私は、今日は、両親の墓前で、霊界通信を試みてみようかなと思い立ったせいか、気持ちが晴れやかになった。
昨日のホームページで落ち込んだ悔しさや、他にも多々話はある。

緩和ケア病棟でご主人を亡くされた奥様が、「天国に電話があれば、もしや電話番号を知っている人がいたら、教えて下さい」と話された奥様を思い出していた。

別れ際の今度は秋のお彼岸ねと、もしかしたら、霊界通信で伝わったかも知れない。


2020年

3月

19日

ホームページ更新を挫折する

今日は母校の小学校の卒業式で、小学校より招待状が届き、何時も利用している宿泊先も予約して、まるで自分の卒業式の様な高揚感があった。

処が、新型コロナウイルスにより、事態は急変、卒業生と保護者と教職員のみとの通達に、楽しみにして居ただけに、コロナショックの被害をまともに被った。
目の前から、突如として、卒業生の輝く未来を共有できるという私の生き甲斐が目の前から、崩れてしまったのである。

然し、これは私一人の問題でない事は重々理解しているものの、今の私の環境というか、体調管理上、一番メンタルケアになるという効果を感じ取っていたからだ。

そこで、予てより、ホームページのリニューアルを考えていたので、私は、現在のタイトル「医療コミュニケーション」を卒業しようと、パソコンに向かった。

処が、私は簡単に考えて居たが、リニューアルするには、かなりの準備に伴う慎重さが必要と分かった。
現在の内容について、私は順次得意の断捨離と迄の大英断はないが、的を絞って、スリム化したいと考えていた。

どうやら、よくよく準備して一気に処理するのがベターと知り、試行錯誤に陥ってしまい、頭がフリーズするし、体調にもシグナルが付いた。
もうこれ以上無理する事は、私にとっては凡ゆる面で限界である。

折角、母校の卒業式を機に、私も新しいホームページをリニューアルしたかった。
久しぶりに痛く私は疲れ切ってしまったが、母校の校長先生からの素晴らしい卒業式との報告、当日のブログを見て、オアシスの様に気持ちが落ち着いて来た。

やはり、私には年を重ねるにつれて、段々と故郷の力が大きい存在になっている。

2020年

3月

18日

夜明けの宇宙ショー

昨日17日の夜明け3時38分、目が覚めた。
これも私の朝のルーティンといえるかもしれないが、カーテンを開けて、空を見る。
凡そ、数年以上、加齢もあり、必ずと言ってた良いほど4時前後に目が醒める。

カーテンを開けて、思わず夜明けの未だ三日月とは言えないチョット太めの細い月と
側でキラキラと輝く開けの明星に、寒さも忘れ、魅入っていた。
昨日は、気温が下がっていたせいで、窓ガラスの結露がびっしりと滴り落ちるのも気にならず、宇宙からの激励のメッセージにも取れた。
残念ながら、寒さを感じ、慌ててまたベッドに潜ったが、早速体からシグナルが出て喉の痛みを覚え、薬のお世話になる始末である。

兎に角、来週は予定が多く、安全を期して大人しくしていた。
ベッド上には、スマホとタブレットを置いて、忙しくタッチを繰り返す1日になった。

夕刻、何気なくタッチしたスマホで、今日18日の夜明けの宇宙ショーのニュースをキャッチした。
月と火星・木星・土星が並ぶという。
何としても、こんな素晴らしい宇宙ショーを見る機会は少ないと、ジャスト4時に目が醒めた。
直ぐに、カーテンを開けると、確かに冴え冴えとした月の側に、弱々しい星が見えたが、一瞬のうちに、光が弱く視界から消えてしまった。

微かに見えた光が、3つの惑星の何れかは分からないが、夜明けに眼醒めてしまうのも悪いばかりで無く、宝物を見つけた気持ちになった。
未だ、20日迄続くそうで、恐らく、明日も眼醒めは早いと察している。

テレビを処分して以来、「ラジオ深夜」を専らBGMに、終夜付けっ放しでいる。
そろそろ、長く続いている悪しき習慣ともいえるので、平常の時間帯に戻す努力を思うものの、素晴らしき宇宙ショーは見逃したくない想いと、体調を考慮して、目下、闘っているのである。

二日間の夜明けの素晴らしい宇宙ショーは、今後も私の思い出の一つになりそうだ。

2020年

3月

16日

青空に想いを綴る

朝からすっきりと清々しい青空が広がっていた。
一昨日の桜の開花宣言に、近くの公園の桜桜もと期待を持って見上げると、まるで無表情に固い蕾で、未だ時間がかかりそうだとがっかりする。

期待を裏切られたが、園児が元気に駆けっこして声をあげている光景に、思わず笑みがこぼれる。
数日前から、メールや電話でコロナショックとかコロナストレスといった表現を多く聞き、大人たちの限界状態が日を追って強くなっているのが分かる。

そういう私も、自分を自分でケアしながら、闘っている。
相変わらず、鋏を相棒に、ひたすら黙々と、チョキチョキしている毎日が続いている。
今週は、故郷の母校の卒業式に出席する筈であったが、其れも叶わず、私のコロナショックである。

公園を吹き抜ける風は、冷たいが、暫く青空を見上げていた。
この空は故郷まで続いているのだと、自分をリセットしていた。
そして母校の子ども達は、あさくちブルーの下で元気にしているだろうかと想いを馳せてしまうのだ。

終息の気配は無く、段々、気持ちが沈みがちであるが、今の私には、嘗て母校の校長先生の「故郷は何時も待っていますよ」の言葉を思い出し、ジーンと胸が熱くなる。

出来れば、一刻も早く、世界から新型コロナウイルスが終息する様に、青空に向かって私は祈る想いでいる。


2020年

3月

14日

桜の開花前と開花後

朝は雨が降り、ふと気がつくと「雨がふります 雨がふる」と懐かしい童謡を口ずさんでいる。
北原白秋作詞によるもので、外で遊ぶ事も出来ない子ども達の気持ちが良く現れている。
最後は、ちょうど今、日本中を重苦しく覆っている私達のやり切れなさを唄っていると、因みに「雨がふります 雨がふる 昼もふるふる 夜もふる」と締め括っています。

何とも私自身の気持ちが実に表現されていると想っている。
休校中の元気な姿が見えない寂しさを大人にも重ね合わせ、夫々の辛い想いを共有出来る奥深い歌詞だと感じていた。

メディアも何か明るい話題にと努力している姿が痛い程理解出来る。
今年は例年より、桜の開花が早いとの予測を心の何処かで待っている気持ちもある。

確か、気象庁では、目視による観察を廃止したとのニュースに私は、今年から桜の開花も無くなるのかと瞬時に怒りを覚え、何処まで味気ない時代に進んでいくのだろうと、日本人の細やかな感性を案じた。

然し、桜の開花は、気象庁職員による目視によって宣言されたニュースに、朝から続いていた重苦しさに少しだが気持ちは晴れた。
スマホの映像で、逆に心に痛みを覚えた。

何と雨に打たれてながらも開花した弱々しい花に、私は桜の花の気持ちを聞いてみたいとさえ想ったのである。
然も、雨から霙から、雪に変わった今日の午後に、律儀に私達の想いを察して開花したのではないかと。

桜は開花する迄には、桜の樹は開花の為にエネルギーを蓄え、樹が熱くなると言った記憶がある。
そのエネルギーを今日の開花に蓄えた自然の持つ条理に人は謙虚にならなければと。
弥生3月月になれば、桜は開花すると当たり前に思っている事の一つひとつが警鐘を鳴らしているのでは無いだろうかと。

そうだ今日はホワイトデーだった。
然し、何時もなら盛り上がるホワイトデーも寂しく、話題にも取り上げられなった。
全てがフリーズした様な1日だったが、せめて開花した桜の弱々しい花だけはフリーズしないよう願っている。

2020年

3月

13日

鋏が相棒

昨日と今日、明けの明星がキラキラと輝いていた。
最近の重苦しい気持ちを、「星に願いを」と言った心境になる。

今日は、13日の金曜日だ。
時刻と共に、勢いのある太陽の陽射しが部屋に差し込んで来た。

明日が資源回収日に向けて、紙資源の整理をしようと始めるが、安全を気して鋏の使用度が多くなる。
別に、今日に限らず、金曜日は資源回収に新聞を始め、紙資料のチェックをするのが習慣になっている。

実は、私はチョキチョキと鋏で切った紙類を、ゴミ箱にひたすら捨てるのが、結構楽しく、ストレス解消になる。
全くの単純な作業だが、意外にも閃きが湧いて来るから、私にとっては、頼り甲斐のある相棒と言える。

唯、黙々と続けると、ガス抜きに近く、リセットに繋がっているのだろうと想って、金曜日に限らず、気分転換にも効果がある様だ。
だから、やめられないのである。

時々、勢い付いて、必要なもの迄、切っては、慌ててゴミ箱から探し出す失敗をする。
然し、加齢もあってか、ゴミ箱から探し出すパワーが失って、寧ろ、もう必要ないと思う様にすると、妙にスッキリする傾向にある。
拘る程のエネルギーが無くなったとも言える。

紙資料の整理から、次はデジタル整理をと、予定としては頭にインプットしているが、どうも紙資料より、私には手強く苦手な部分だけに、先ずは体調と相談しながら、出来れば一刻も早くとの想いが強くなっている。

2020年

3月

11日

ワークムーンが見えた

昨夜、東京は生憎の烈しい雨に、楽しみにしていた3月の満月「ワークムーン」は無理だと、がっかりしていた。

毎朝6時にポストに新聞を取りに行くのが、知識の源になる朝食の存在と一つのルーティンといえる。
ビルとビルを挟んだ中央に、昨日のワークムーンが、鮮やかに夜明けの空に輝いているではありませんか。

今の閉塞状態につけ、未曾有の災害の東日本大震災の9年目の日でもあり、何か一つでも心和むものが欲しいと想っていた私は、気持ちを前向きにリセット出来た。

不思議に、 思わずスイッチが入って来るのが分かった。
人はやはり自然の恵みの中で生きているという想いを強く感じた。

今月の6日で、75歳、後期高齢者に仲間入りしたピカピカチャンです。
予てより、4月からホームページをこの機会に更新をしたいと考えあぐねていたが、そろそろ準備する時間が迫って来た。

体力も一進一退だが、快方に向かっている実感を得る迄になった。
自粛生活を余儀無くしていた反動が、一気にホームページの更新に向き合うのが苦痛にならなくなった。
苦慮していたが、何とか大まかではあるが、前に進める処迄煮詰められそうだ。

食欲も、免疫力低下と言った拘束状態から、珍しくスーパーで好物に手が伸びる。
スマホに、東北の各地で虹が見られたとある。

然も、被災地の宮城県名取市閖上地区では地震発生時に、鮮やかな虹が姿を現したとの報道に、自然界からのエールと受け止めた私は、救いを見出した。
更に、私が東京でワークムーンを見ていた午前6時の同時刻に、岩手県大槌町や福島市でも虹が見られたとある。

この様な符合は、未来への希望に繋がって欲しいと、想っていた。

2020年

3月

10日

悲喜交々の日

今朝でヘルペスの抗生物質の服用が終わる。
一つ、気持ちが軽くなると、これまでグズグズと進まなかったが、頭のモヤモヤした曇りが晴れた。
皮肉にも朝から雨雲が重くどっしりと居座っている。

ましてや新型コロナウイルスに神経質になり、気持ちの落ち着き先が見つからない処に、厚生労働省の推計式から総務省の人口推計をもとに算出した「流行ピーク時の1日あたり患者数の推計人数が掲載されている。

確かに情報発信や情報提供は必要であるが、体調に不安を感じている私には、痛く敏感になってしまう。
遣り場のない処に、この情報は、必死に前向きに強く気持ちを奮い立たせている私にはかなり厳しく堪えた。

然し、一方では、予定が遅れている整理をしようというスイッチが入っている。
そういえば、昨日の日本経済新聞の夕刊に、2000年3月10日で、東海道・山陽新幹線の食堂車が廃止されたという記事を思い出した。

少し前に、国際的にも活躍した菅井汲との思い出の一つであるレリーフ製作について記したが、1996年5月に亡くなった菅井汲の葬儀に、父親と共に参列した。

未だ、今の年金生活で無く、現役だった私は、恐らく父親との最後の旅行になると思っていた。
グリーン車の父親は、素直に喜んでくれた。
更に、食堂車で「海老フライと確かフランスパン」にワインも加え、グラスを合わせた凡そ4年前の記憶が懐かしく思い出していた。

これから葬儀に向かうには、些か不謹慎な気持ちが過ぎらない訳では無いが、これっきり最後だろうとの想いが強く、今は懐かしい思い出としての満足感に至っている。

東海道新幹線の利用者が現在50パーセント近く減少しているそうだ。
未だ、先の見えない自粛生活が続くとの見通しだが、私は、3月末の最終近くに、母校の会議の予定がある。
叶うならば、母校の会議迄には、あさくちブルーの母校に帰れる様にと、お願いだから叶えて欲しい。

今日は、ワームムーンと言われる3月の満月 だが、残念ながら夕刻から激しい雨が降り、今日は悲喜交々の1日で終わった。

2020年

3月

08日

思わず笑みになる

新型コロナウイルスで、自粛生活が続いているのは私だけではなく、丁度1週間になった故郷の母校が気になっていた。

校庭から元気な声が聞こえないシーンと静まり返った風景を想像するだけでも、私は新型コロナウイルスが憎く思ってしまう。

楽しみにしていた卒業式もスルーする方針に、日常生活にも何かにつけても気が滅入る日々が続いている。

今朝の日本経済新聞の別紙日曜版 「NIKkEI The STYLE」の紙面を開いて、目に入った記事のタイトルと写真に思わず吸い込まれる。
「青い町で」に私は、笑みを浮かべていた。
久し振りにに「青い」という表現をとても懐かしく思った。

記事によれば、インド北西部ラジャスタン州、タール砂漠の入り口にあるジョードプルという町の家屋の壁が青く塗られていることから「ブルーシティー」の愛称で呼ばれ、インドを訪れる観光客の人気スポットのひとつだそうだ。

壁を青色にした根拠は分かっていないそうだが、太陽熱を和らげ屋内の温度を上がりにくくする役目があり、蚊やシロアリなどの害虫駆除効果もあるなど、青い壁は住民の生活に役立っているとある。

記事を読み終えて、「ブルーシティー」と言われるインドの街に故郷の「あさくちブルー」が重なり、気持ちが和んで来るのである。

「ブルー」という色には、明るいという意味があると聞いた記憶があるが、人の気持ちも明るくする力があるのではないだろうか。

何よりも、私には故郷の青空「あさくちブルー」が、欠かせない存在を再確認した。
一日も早く「あさくちブルー」を見上げる日が訪れる日を待遠しく思っている。



2020年

3月

06日

アンストールとインストール

今日は朝から、「あさくちブルー」にもヒケを取らない雲一つない素晴らしい青空を迎え、加えて今日は、ピカピカの後期高齢者の仲間入りをした75歳の誕生日でもある。

閏年でなければ、今日が24節気の「啓蟄」だが、今年は昨日だった。

「啓蟄」には、私は昨日までをリセットしようという気持ちになる。
今年は、既に、一年程前から私の中で始まっていたが、一つひとつを順序良く進める為の準備期間に時間がかかり、今も弾みが付かないというか、思い切りが悪い。

我が家の平均寿命は、調べて見ると約79歳である。
そうすると、残す所凡そ4歳になるが、思い通りにいかないのが人生だけど、早晩は逃げられない。

別に悲壮感は無く、寧ろ、納得のいくというか、赤字の人生で無く、黒字の人生で終わりたいと想っている。
既に整理済みのものもあり、残すは、一番シンドイの常に心掛けているつもりだが、紙資料の多さは群を抜いている。

コマーシャルでチョット扱う商品は異なるが、「もう5年着なかったら」というフレーズを思い出し、「そうなのだ」と頭では理解出来るが、いざ行動に移そうとするとブレーキが掛かる。

嘗ては思い切りが良すぎて、慌ててゴミ箱を探す程だったが、ここ数年、どうも決断が鈍くなっているのが自分でも認めているにも拘らず、一向に進まないのである。

未だ冷静に自分を見つめる余力が残っている間に、整理しておきたいという想いが日増しに強くなっている。

実は、急いで整理する理由は、表現に些か問題のある誤解を招かねないかも知れないが、目の前の目障りとも言うか、不要と思われるものは、アンストールしたい。

自分勝手かも知れないが、私の中には幾つかの生き甲斐というべきものだけに絞ってインストールしたいのである。

今日を私は例年の「啓蟄」の日として、これまでの人生のトリアージというか、自分の気持ちの優先順位に素直に受け止めていきたい。

74年間の中で、今後はアンストールからインストールの人生を新たにリセットしていきたいと想っている。

2020年

3月

05日

ハプニングと心配り

一進一退するヘルペスに、再度診察を受けた。
外観上は、殆ど回復しているが、念の為にと、もうワンクール抗生物質を服用するとなった。
ここが、私の幼児体験がフラッシュバックして、特に新型コロナウイルスに敏感になっているだけに、ドクターの診察を受けた段階で、気が軽くなる性格はまだヘルペスの水疱瘡の菌の如く、中々不安感を払拭するのに時間がかかる。

もし、納得出来る診断が出ればと、朝から私はバックの中に、ある書類を一式持って病院に出かけた。
お陰様で、シブトイヘルペスもこれで終息すると思った私は、バックに忍ばせて来た書類の手続きに区役所に足を伸ばした。

実は、私は今日の3月5日を持って前期高齢者が終了する日である。
丁度、病院と区役所は5分程の位置関係にあり、早速、国民健康保険高齢者受給症も後期高齢者医療日保険証に更新前日で、これまでの住民基本台帳カードの期限も半年後と、凡ゆるタイミングで、マイナンバーカードの申請が必要の時期もだった。

コロナウイルスのせいか、矢張りいつもより区役所も空いていた。
窓口で丁寧な説明を聞き、いざ、書類に捺印の際、ポシェットにいつも爪切りや小鋏を入れていた小鋏に、印鑑を探す際に、右の親指の爪の近くを切ったらしい。
というのは、痛みも無く、いざサインと捺印をしようとした際、今にも溢れんばかりの鮮血に気がついた。

窓口の担当者の男性は、近くの印鑑拭きの髪を凡そ10枚程、私に渡し「大丈夫ですか。血が止まりませんね」というや、席を立ったのである。
私は、血の気は多いが、こんなに止まらないことは珍しく「セロテープを頂けますか、強く締めますから」

窓口の男性の担当者は、今バンドエイドを手配していますから、暫くお待ち下さい」
更に、高齢者になると、証明書用の写真が無料サービスもあった。
「バンドエイドで止めて、落ち着いたら、写真は撮りましょうか」
間も無く、女性が、一枚で無く予備を用意して持って来てくれたのです。
「チョット出血が激しいし、鋏で切っているので、出来れば、又病院で診てもらって下さい」と、中々身内でもこれだけの心配りをしてくれないのではないかと。

数分後、写真を撮り終えて、病院に戻ると、医療相談に幸運にも旧知の看護師が、どの程度か状況を診て貰うと、お陰様でで、止血していたので、改めたテープで処置して貰った次第である。

改めて、区役所に戻り、窓口で丁寧な対応の担当の男性に、報告とお礼を済ませた、私は、前期高齢者と素晴らしいお別れが出来たと幸せを感じていた。

2020年

3月

03日

最終回が来た

1917年5月5日からスタートしたアメブロの「花とエスプリ」を999回を迎えた今日、3月3日で終了します。
身近に出会う季節の花々にに想いを馳せて、僅か70字前後に限定した稚拙なショートショートである。

途中で一休みした時期もあるが、毎日それなりに楽しくも辛くも続けた。
最近というか、凡そ1年近く、気候変動の影響か、残念ながら出会う花から疲弊感を想う様になって来た。

改めてスタート時の1917年当時の花と比較すると、違いが歴然している変化が分かったのである。
花そのものから、私はこれまでに多くのパワーや安らぎを貰って居ただけに、花自体の声なき声が私をいつしか苦しめる存在になったのである。

当初の考えていた想いと日を追って脆くも崩れ始めた現状に、結論を出さなければと、そのタイミングを見極めていた。

弥生3月は、丁度、私にとっては、重ねるかの様に、ある時代から後期高齢者という新しい高齢者になる月でもあり、3月3日はお雛様の日でもある。
ならば、その日で999回、「サンキュー」との想いをかけて、「花とエスプリ」は閉店としました。

999回のうちで、大変嬉しく記念に残る機会もありました。
2018年に、「笑顔の力」の文庫版の表紙に、「花とエスプリ」の花を採用して頂いたことは、私にとって忘れられない大きな喜びです。

長い間、お心にとめて頂きまして、ありがとうございます。
少しずつ、私生活も最終章に向かっての準備を進めている内の一つです。

「端午のせっく」に始まり、「桃の節句」で終わるというもの私なりに満足感と達成感を持っています。
「これで良かったのだ」と言った心境です。

今少し休養させていただきます。
心身共に、栄養価が優れ、知識の豊富なエネルギーをチャージする期間とします。

恐らくじっとしていられない性分ですから、ピッピと閃きを待つと致しましょう。




2020年

3月

01日

子ども達の声が聞こえる

先週末、教育の現場に激震が走り、我が母校の小学校も春休み迄休校になった。
如月から春へと季節が移そうとしている弥生三月の日曜日。

東京は、故郷の青空「あさくちブルー」に、引けを取らない程の高く澄み切った空が朝から広がっている。
目が覚めたいる間は、新型コロナウイルスの情報に、私自身まで、もしかしてヘルペスなど発症するのは、免疫力の低下によるものでと、つい不安ばかりが過ぎる。

自宅に籠もって、自粛するよりは、こんな素晴らしい空の下で、故郷に想いを馳せた方がと、自宅前の公園に出掛けた。
信号を送ると目の前が公園だが、それまで道路一本挟んだだけで、その場がガラリと変わった。

子供たちの元気に弾んだ声と笑顔が輝いているではありませんか。
家族も日頃の不安感を払拭するかの様に、子どもと楽しんでいる表情が伝わって来る。

私もその場で、青空をバック見上げ、何度も深呼吸をした。
当たり前の日常の生活がこんなにも懐かしく感じるとは、私も今回の掴み所のない新型コロナウイルスに疲れを覚えていた。

その時、私は既に約二ヶ月近くで、悲鳴をあげているが、間も無く東日本大震災が9年目を迎える。
被災地の南相馬市の原町中央産科病院の医師で高橋享平をテレビで取り上げた番組を思い出した。既に高橋医師はガンに侵されながらも、被災地に残り、24時間診療を続け、震災後も26人の新生児を取り上げたという。

病と闘いながら、高橋医師が「子どもがいなくなる事は未来がない」との言葉を今も鮮明に私の脳裏に残っている。
今回の状況と異なるが、私には重なって胸が痛くなった。
それだけに、公園の子どもたちの弾んだ声は、未来を感じさせる強さを感じた。