2019年

11月

26日

信頼の重さ 責任の重さ

今、亡き父親の言葉に、改めてその意図の重さを感じる。
社会人として新しい未知の世界にスタートする前夜だったと思う。

今後、職場では「なくてはならない必要な人になって欲しい」と。
更に「人から信頼される存在になることと、どんな些細な事にも責任を持つ人になって欲しい」と、私に「この三つをよく覚えておく様に」と言っただけで、終わった。

父親は、確かに私の記憶にも、まさにその通りに生き抜いて来た父親の自らの体験から発した言葉と理解出来る。

恐らく現在でも「信頼と責任」は変わりなく存在していると思っている。
最初のフレーズの「なくてはならない必要な人」について、現在では特殊な技術を持っている人以外は、必要な人材となり得るか微妙な時代になっている。

後者の「信頼と責任」について、私は今、改めてこの言葉と向き合う場面に出会ったのである。

相手から、私が予想していた以上に信頼されていると知る状況が起こったのだ。
内心、理解してくれる人がすぐ短に存在していた事実に、私は内心、とても嬉しく、此れまでの私なりの一途な気持ちを黙って見続けていた人がいた。
相手の気持ちに報いる為には、信頼を裏切らない責任の重さを感じたのである。

新年早々の薬学部の「ボランティア実習講義」でも、ボランティアは自らが望んで活動をする以上は、「責任を持つ」立場にあると毎回伝えているが、責任を持つ行為こそ、信頼される第一歩ではないだろうか。

順序よく整理していくと、父親の最初の「なくてはならない必要な人になる」という着地点に辿り付くのではと思える。
何れにせよ、良き理解者を得るに至った以上は、私も責任を持って対処しなければならないと、今、心新たにしているところである。

2019年

11月

15日

ふくろうのそめものや

これぞ「あさくちブルー」の素晴らしい故郷の青空に迎えられ、62年振りに母校の学芸会に帰った会場は、緊張と熱気に包まれていた。

今年の5月には運動会に、やがて半年になる今年の一年生による長野県の民話「ふくろうのそめものや」には、私は想像を超える成長に驚いた。

各学年も練習を重ねた結果に、とても叶わない底力というか、パワーを秘めていると実感した。
残念ながら私は小学校時代は病弱のために、遠足、運動会、学芸会等の、ワンチームで活動する機会が少なく、学芸会も丸で初めて喜びを味わったとも言える。
こんなにも努力の結果には、達成感があるという事も今回体験できた。

母校に帰る度に、もう一度出来うるならば、母校の小学校で学び直したいとの想いを改めて強くした。

「ふくろうのそめものや」は民話だが、私にとって最も大切で座右の書とも言える絵本をいつしか重ねていた。

それは1961年1月1日に福音館書店から出版されたワンダ・ガアグ文・絵で石井桃子訳の「100まんびきのねこ」である。

この出版にあたり、福音館書店の編集担当者が、子ども向けでしかも3歳児から、全てが「黒一色」の絵本に、絵本といえばカラフルなイメージがあるだけに、当時としては、大英断だったという後日談を新聞か、何かで読んだ記憶がある。

その時、「黒一色」と思われたが、物語の展開で、色が見えると子ども達は反応を示したとも聞いた。
「ふくろうのそめものや」から、私は演じ切っている1年生から、同じ様な想いを持っている事に気付いていた。

僅か3時間程の学芸会だったが、また母校の子ども達からパワーという素晴らしいプレゼントを貰った。

2019年

11月

08日

ふるさと愛を決定的にした青空

 昨年の11月8日、私は故郷の地である浅口市の天文台のある竹林寺山の頂で、見上げた空に思わず経験したことのない青空に、私はその場で立ち尽くしてしまった。

既に6月に、母校のPTA70周年記念に卒業生の私に講演依頼の機会で、61年振りに帰郷した際に、確かに梅雨のシーズンだが、母校の講堂には明るい日差しが差し込んでいた。
然しその時は、身に余る重責に余裕を失していた。

無事に終わり、すっかりモダンな建物に変わった故郷のプラットホームで帰京の為に列車の到着を待っている間、何とも言えない故郷の香りのする風が私を包み込むように吹いた時、私は忘れていた故郷の風を感じた想いを胸に帰京の途に着いた。

もう二度と故郷に帰る機会は無いと思いながら、帰りたいと言う想いが迸って切るのを抑えきれない日々が続いた。

然し、そのような私の想いに救いの手が差し伸べられ、再度11月8日に帰郷した。
午前中に案内されたのが、竹林寺であった。
「晴れの国 おかやま」とは聞いていたが、わが故郷の浅口市は大気の安定と晴天率の高さから「天文のメッカ」と言われていると聞いた。

確かに「天文台のまち 浅口」に相応しいと納得する一方で、私は「青空」が強烈に脳裏にインプットされてしまった。

地元の人に私が興奮して話す「青空」に「当たり前」との刷り込みがあり、どうして私が熱くなっているのか不思議な表情でいる。

どうも昔から気になると、とことん突き詰める性分が、忘れていた私に火を付けた。
それからの私は、機会あるごとに、iPadに納めている「青空」を見せた処の反応に、私は自信を持ったと同時に、私は地元の人も気付かなかった「青空」を。多くの人に発信したいとの想いでいた。

つまり、私は故郷を離れた故に、新たな視線で発見したということである。
ちょうど、今日で一年になるが、帰京後、尊敬する方にも相談したり、責任もあり軽々しくは独断は許されない。

ある方だ、私の背中を押してくれるヒントに、故郷の青空を「あさくちブルー」と
名付けた。

まさに、「あさくち ブルー」の記念日と心に秘め、ふるさと愛が昨年6月の帰郷以来、私の人生を豊かにしている。

2019年

11月

04日

「リンゴの唄」に始まって

現在、私は「医療コミュニケーションと」言うテーマでホームページを開設して、久しくなるが、「言葉は『魂の架け橋』」と「青空と星空のコラボ」の二種類がある。

その内の「言葉は『魂の架け橋』」の方は、毎月月末に、「青空と星空のコラボ」は毎週末に更新をする様に心掛けている。

今回、前者を「リンゴの唄」についての入院中の高齢の女性の方との関わりをアップする際に、これから取り上げる前哨戦を思わせる疑問というか、迷いを持ったまま、書き上げたのである。

私の迷いを察したかの様に、11月3日の日本経済新聞の日曜版の文化面に、漢字学者の阿辻哲次氏による「遊遊漢字学」と言う連載がある。

私が「リンゴの唄」を「歌う」或いは「唄う」と文字化するのかを考え迷って、実に双方を使用するといった狡い方法で纏めた事が、尾を引いていたのだ。

阿辻哲次氏の記事によれば、「歌」の他に「唄」「謡」とあり、一般的に「うたう」は「歌う」で、「謡」は謡曲とか民謡に、「唄」は「小唄」や「長唄」などの伝統的な邦楽にと。

更に、「唄」はもとは仏教の儀式で僧侶が朗誦する仏教専用の「うた」で、一般人は口にするものではなかった。
「流行歌」を絶対に「流行唄」と書かない背景には、「梵唄」がもつ荘厳なイメージが作用しているのかもしれないと結んでいる。

急に、サトウハチロー作詞、万城目正作曲の「リンゴの唄」はと早速検索すると、戦後のヒット曲の第1号で、日本の楽曲とある。ジャンルは歌謡曲になる様だ。

話が飛躍するが、林檎については、童謡詩人の武内俊子作詞による「りんごのひとりごと」を病気がちの傍で良く歌ってくれた記憶がある。

ついつい、武内俊子氏迄検索は止まらなくなって、何と、私と同じ「猩紅熱」で入院生活をしていた昭和15年頃は、林檎は簡単に手に入るものではなく、私の時代も勿論入手が難しくまた林檎は高価であり、病人食と言うイメージもあった様な記憶ある。

直ぐに彼方此方に気が散る性分から、確か、「かもめの水兵さん」もと思い出したところ、矢張り記憶に間違いなく、武内俊子作詞であった。

病弱だった私が、小学校の学芸会に初めて参加出来た忘れられない思い出が、何と「かもめの水兵さん」だったのです。
「リンゴの唄」から思い掛けない迄に話題が尽きなくなった。

「リンゴの唄」の女性は数日後、旅立たれたと報告を受けているので、私としては自己弁護する訳では無いが、「歌って、唄って」で良かったのでは想っている。

また、「リンゴの唄」に始まり、これ程までに深く学ぶ機会を与えてくれた今は亡き高齢の女性の方からのプレゼントと有り難く受け止めている。



2019年

11月

01日

何て爽やか

今日から霜月、いよいよ晩秋の季節に移る。
先月迄の通り越して来た様々な出来事が霧が晴れた様に、頭の中がスッキリして実に「清々(キヨキヨ)しい」のだ。

こんな爽やかな日を迎えるなんて考えてもいなかった。
然し、今私はハッキリと自覚していると共に、心も穏やかである。

長年活動して来た病院ボランティアの限界を遡ると数年前に、頭から離れない程の重さを感じていたが、年齢的にも、また自分の体力をも削ぎ落とすほどの重圧から、早く解放されたいと想い続けて来たが、その問題も最終章を自分の中で、やっとキッパリと結論を導くに至ったのである。


17歳から約40年病弱な私を支えて下さった病院で、凡そ30数年の長き病院ボランティアに終止符をうてる事も幸せと思えるからである。

不思議にそれ以来、「澱」の様に身体にのし掛かっていた目には見えないものが消えていくのを感じた。
更に、此れまで苦痛と思っていた活動が、とても軽やかに、新鮮すら感じている自分に気付き、最終章迄は、悔いのない活動をと思えるに至ったのである。

この問題がクリアーになる事で、全てがスイスイと心身共に軽やかに動き始めたのである。

先月末の母校の小学校も、ある意味で一つの節目というか、次のステップに進むために大切な意味ある問題についても、私なりに恙無く解決の一助に繋がったと、安堵を感じ取っている。

母校の温かさに、久し振りに伸び伸びと発揮出来たと言う幸せ感も、今日の爽やかに繋がっている。
本当に、故郷に救われ、ターニングポイントに繋がったと想っている。

今、未来ある母校の子ども達の元気な声、笑顔が私には大きな生き甲斐であり、私が何が出来るか想う日々が、楽しくて仕方ないのである。

この幸福感が1日でも長く続く為にも、自炊に励み、優先順位を良く見極め、今日の様な爽やかな毎日を過ごしていきたいと心から想える忘れない日になった。