2019年

3月

31日

変化の多い誕生月だった

啓蟄が誕生日の私は、啓蟄というのが、春分の日までと知った時から、ジェットコースターのような、ハラハラとしたり、目紛しい変化に、身体が反抗し続けている。

確かに一つ歳をとるとは、こういう事かとも思う日々が長く続いた。
何をするにも、無機質な機械を相手にするのも「しんどい」ものである。
悔しいが、世間から疎外されない為には、やるっきゃないのが今を生きていくには仕方ない。

情報社会の渦に飲み込まれそうになるのを踏ん張るのも、身体に応えたようで、主治医から一言。
「あまり動き過ぎないように、休養してね」「ハイ、気を付けます」

とはいうものの、何故か、逆に次から次へと美術品商の頃より、用事が増えている。
だが、忙しいという事は、及ばずながら少々は、人様のお役に立っていると自惚れようと想っている。

事実、三月は昔から私には鬼門の月である。
今年も私のバイオリズムを見逃す事なく、お出ましになったようだ。

然し私は今年は啓蟄に始まり、色々経験し、収穫も多く、学んだ。
新しく始まる次への、三月は準備期間と考えれば、前向きに鬼門月を乗り越えられる。

幸せな事に、こうしてグダグダと自由に自分の想いや考えを書き綴るのが、楽しく辞められない。

来月は既に幾つかの、堪らなく喜ばしい予定が待っている。


2019年

3月

22日

1979年から続いていること

1979年から今も同じことが続いている。
それは何かと言えば、美術品商時代の決算月は10月末だった。

決算月が近づくと、伝票に始まり、筆記道具、社名入りの便箋、封筒などが、残り少なくなる。
特に著しいのは、ボールペンの芯が「ハイ、これまでよ」と掠れ始め、物の見事に無くなるのである。

実は、何か一区切りすると、必ずといって良い程、未だに同じ事が起こるのである。

そろそろ、世間では私も賞味期限切れと言われても、受け入れる年齢である。
寧ろ、その方が楽だと思う時間も多くなった。

気がつくと、名刺も数枚になって来たので、いよいよ名刺ともお別れしても良いと思った。
ところが、未だ必要とする思わぬ方向に進み始めている。
慌てて、名刺を印刷する事になり、内心、悪い気持ちはしない。

何処かで正直なところホッとしている自分がいるのを浅ましくも思うが、事実だ。
印刷しながら、これを使い切ったら、恐らく賞味期限切れだと思っている。

更に1979年と変らず、ボールペン、シャープペンシルの芯も数日前に無くなった。

この不思議な事がいつまで続くのかなと想いを馳せながら、買い求めに出掛ける足どりは軽い。

2019年

3月

15日

回答の無いのが返事ですか?

啓蟄の日に、「1500字」に挑戦した回答は、休日を除いて約一週間との自動受信の返事だった。
几帳面に日を追って待っていたが、返事はない。
遂に、私は我慢出来なくて先方に電話を掛けて問い合わせる行動に出た。

この「1500字」には、私よりある相手が返事を待っていることが痛い程、伝わってくるからだ。
幸いにも電話口の女性は、事前に確認した私のことを記憶していた。

直ぐに担当者に取り次いだとの返事だった。
電話口の女性に、未だに回答がないことはと尋ねた。
その女性は、申し訳ないが、一週間連絡がない場合は、不採用を意図しているとの返事だった。
電話口の女性の応答から、致し方ないことで終わっても良い立場だが、温もりのある謝罪の気持ちが汲み取れた。

今、街中の彼方此方にリクルートスーツを装って緊張している多くの就活に足早に歩いている風景に、私は、歳のせいか、心配になった。

今は、就活も自動受信から始まるのだろうか。
一定期間、返事がない場合は不採用ということで済まされているのだろうか。
もし、それが至極当然の時代であれば、就活中の学生は強いというか、逞しい精神力に言葉を失う。
既に、社会に巣立つ以前に「挫折感」の洗礼を受けるのだ。

50年前、私は自宅のポストに会社名の封筒が入っているだけで、怖くて緊張したものだ。

そんな浦島太郎の様な話は、さて置き医療の現場では、回答をしないという行為は許されない。
因みに、数社の同業者を調べると、「担当者から連絡します」とある。
アナログ的に、肉声なんてことは望んでいないが、サービス業であるだけに残念だ。

然し私はクレームをつけるつもりもなく恨んでも、悔しくもない。
何故なら、私が求める相手を間違えただけである。
負け惜しみでもなく、次回に同じ失敗を繰り返さないために、大変良い勉強をさせて頂く機会になった。


2019年

3月

11日

私の3・11

8年前の私は午前と午後の病院でボランティアをしていた。
午後の方は、終末期の方との「お話し相手」が中心でした。
3月でちょうど10 年を迎えるので、責任者に自分の辞意を伝えて、間も無くのことである。

思い切りカウンターに体をぶつけ、激しく揺れ動く中で必死にカウンターにしがみついていた。
 床に落ちた額縁を拾っていると、再度激しい衝撃に見舞われた。

窓から見えるビルも地震の衝撃で揺れているのが分かる。
47年前に父親が建てたペンシルビルの我が家が気になった。
一階のテナントさんが気になり、固定電話や携帯電話にしても通じない。
とうとう私の携帯の電池も切れた。
事情を話し、自宅に急いだ。

案じていた通り、電気関係が切断していた。
工務店も案じ、事情を話すと、明日点検してくれるとの返事に、ホッとするも2階の私の住まいが気になる。

思わず声を失った。寝室の壁は大きくヒビが入り、床にはコンクリートの破片が落ちている。
キッチンは無事だが、風呂場の湯船のタイルが何箇所もヒビが入っている。

余震のせいか、カタカタと隙間がぶつかり合って一晩中続き、眠れない夜を過ごす。

翌日、工務店は私に厳しい回答だった。
父親には申し訳ないが、私は手放す決心をした。
翌日の新聞の広告に、我が家から数分の所にマンションの案内を見つけた。
テナントさんともお陰様で話し合いが進み、私は早速広告のマンションを即決購入した。

3・11から約1ヶ月近くで、現在のマンションに落ち着いた。

落ち着いて半年後、ある日、曾て終末期の方から、自分の生きてきた「証」として、遺したいとの想いのを私に、さり気なく、或いはハッキリと書き残して欲しいと話していた。
そうだ、その方達の想いを実現したいとの想いが私にも日を追って強くなった。

曾て編集に関わっていても、物書きとしてはズブの素人の私は意を決して、出版社に申し出た。

そして「笑顔の力」が生まれたのである。
私の人生にも「3・11」は大きな影響をもたらした忘れることの出来ない日になった。



2019年

3月

10日

啓蟄後の4日間

啓蟄後、今日で4日が経過した。

その4日間は、まるでジェットコースターの様に、目まぐるしく様々なことが起こった。
やっと使命が終わり、結果待ちだと構えていれば良いと思っていた。

ところが、帰宅後、何気なくパソコンのデジタルニュースに、打ちのめされた。
相手は象の様に巨大な組織、私は小さな蟻の存在である。
悔しくて、食事も受け付かない程のショックを受けた。
自分のタイミングというか、処理能力や怠慢さを悔やんだ。

更に追い討ちをかけるように、スマホにメールが入っていた。
またひとつ厳しい現実を突きつけられた内容のメールに、直ぐ反射的に、悪い方向に思考の連鎖が止まらない。

否定的に考えると、体調を崩す経験がある私は、自分を自分でセルフケアするしか無かった。
前向きに、未だ私を必要としているのだと思い直すまでには時間が掛かった。

金曜日には、きっと何かが又起こりそうだと想っていた。
北風が吹き、寒い朝だったが、いつもの通り、見上げる青空に、今日は目的地を目指して銀色に輝く飛行機を何と5機も見た。
今日の空は、故郷の青空に近い程、高く澄み切ったいた。
その五機に、今の自分を託し、目標が順調にと想いを込めて目で追っていた。

ホームページも同じテーマが長くなったので、啓蟄を機にもう一つ新しく追加した。
不思議に自分の想いを文字にすることで、心の整理が出来た。
新しい世界が広がればと楽しみに変わる。

こういう時は、断捨離も私の救いになると、土曜日は朝から始めた。
スッキリして、パソコンを開いたところに、又、スイッチが入るニュースを見つけた。

この4日間は右往左往させられたが、元気を取り戻せそうだ。

善は急げと、日曜日だが、不躾にも電話で想いを伝えた。その後、直ぐに肉筆で手紙を投函した。

この5日間というか、4日間はもう白旗を覚悟しなければと思っていると、又新しい目標が私の前に現れるという、まあ、慌ただしい毎日が続いた。

2019年

3月

06日

啓蟄に賭ける

24節気の一つ「啓蟄」の今日は、私の誕生日でもある。
何故か、私も本能的にじっとしていられなく、虫と同じく穴から這い出しては、何かを始めるという一年のスパーンの様な日でもある。
長年の友人達は、また啓蟄が来たけど、今度は何を始めるつもりなの?と問いかけてくる。

自分でも不思議に思っているが、今年も同じくと言いたいところだが、今年の啓蟄はある目標を何としても今日中に完結しなければと、自分に強く言い聞かせた。

宿題の一つである「1500字」に、全エネルギーを投入しなければいけない。
大体が、自分勝手な文章しか書けない私が、真面目に筋立てて書くなんてことは、苦手である。

然し乍ら、既に「賽は投げられている」のである。
その最後の仕上げが私に懸かっている。
達成感もあるが、責任もあるという複雑な境地の1日だった。
約一週間後に結果は出るそうだが、私にとっては「俎板の上の鯉」、受験生の結果発表を待つ心境でもある。

ところで、思い詰めるのも苦手な私は、気分転換に改めて「啓蟄」について検索してみると、何と春分の日までの15日間を意味するという。

74歳を迎えるまで恥ずかしながら知らなかった。まあ、一つ学んだと思えば良い。

虫たちも春を感じつつも、長い道のりの穴を通り抜けねば、春にならないということなのだ。
そうであれば、一週間をゆったりと待ちたいところだが、長〜い一週間に思える。

今年の誕生日は正に「啓蟄」そのものの日だった。

2019年

3月

01日

春は何処から来るかしら?

今日は弥生三月、初めての金曜日の朝は小さな雨粒がポツリポツリと降っていた。
何時ものお馴染みの飛行機は、恐らく厚い雲に隠れて見えなくて、チョット寂しい。

三月は終わりも有れば始まりもある。
先ず、その始まりは間も無く年輪を刻み日が近いことだ。
その年輪の日には、姿を現して欲しいなと、私は待っているのも負け惜しみでなく楽しみだ。

所謂ハラハラ、ドキドキを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかの違いには個人差がある。
表現を変えれば、期待しないでいる方が楽だという考えかたもある。

矛盾しているようだが、生来「待つ」ことが苦手でもある。
「待つ」という事についても、自分なりに精一杯努力して「待つ」という事である。
唯、ひたすら「待つ」だけという感覚は理解し難いし、苦手を意味する。

考えてみると、自分から仕掛けているのかもしれない。
だから、その「待つ」時間が楽しいのでは無いだろうか。

何れは、嗚呼そうだったのかと言った答えを見いだす日を時めきながら待つとしよう。