2019年

12月

31日

14歳に学んだこと、思い出して

2018年6月に、私はテレビを処分して以来、専ら新聞とスマホのワンフレーズのニュースに加え、幸いにもマンションには有線放送が設置されている為、ラジオで公共放送のニュースを聴く程度の情報入手の生活をしているだけだ。
後は、有線で音楽を聴きながら、ゴソゴソとしていると言った様である。

2019年もいよいよ大詰めを迎えようとしていた時刻だったと思う。
多くの人は、恐らくひと段落して、のんびりと令和元年の最後の夜を様々に休んでいる頃に、私は今日のノルマが達成出来ず、相変わらず鋏で不要と思う紙資料を断裁していた時である。

傍らのスマホに表示されたニュースに、何かの間違いでは無いか、所謂フェイクニュースの類ではとすら、直ぐには信じ難く、受け取っていた。

日産自動車の元会長のカルロス・ゴーン被告が中東のレバノンに逃亡したというニュースである。
私は、咄嗟に当時日産自動車の社長だったカルロス・ゴーンの新聞の切抜きを残していた事を思い出した。

記憶は正しく、2001年1月8日の日本経済新聞の文化面に「交遊抄」というコラム欄が今も続いているが、矢張り既にセピア色に変色しているが残っていた。

現被告のカルロス・ゴーンは、当時レバノンにあるキリスト教イエズス会系ノートルダム高校で、ラグロボール神父の教えに付いて書いてある。

被告が曾て1968年の14歳の時の、自らが「深遠なる教え」を受けた事を思い出して欲しいと、縁も所縁もない被告に、ツイツイ、私の想いを綴ってみた。


2019年

12月

26日

クリスマスツリーの片付けも最後

いよいよ今日で、クリスマスツリーの片付けもボランティアとして、最後になる。

来年、私は後期高齢者の仲間入りをする為に、そろそろ自分をもう一度、見つめ直したいというか、自分の気持ちに正直になりたいとも思うからである。

2019年で幸いにターニングも終え、2020年に繋いでいく道筋も鮮明になった。

迷わずに心に決めた通りに、一歩づつ丁寧に歩んでいく想いでいる。



2019年

12月

21日

母校の「餅つき大会」に参加したいなぁ

今日母校では、秋に刈り取ったお米で、母校の「親子で餅つき大会」の日だ。
故郷に住んでいる時も、どこからとも無く「丸餅」が出来上がって来ていたので、実際の餅つきの風景は、当時は、写真か挿絵で見た記憶の世界で過ごした。

数日前から、何となく餅つき大会が気になって仕方ないのである。
片足というか半身は、故郷に向いているといった具合である。

 何故ならば、先月、首都圏から「日帰り」で、故郷の地である「天文台のまち 浅口」高く澄み渡った「あさくちブルー」にチャレンジした体験があったからである。

また、数日前の菅井汲氏との仕事もそうであったが、東海道新幹線、山陽新幹線の沿線での仕事が多く、気がつくと、航空機も利用して、殆ど「日帰り」で仕事をこなして来たからである。

ひとつには、ある時から、病気がちな両親を抱えての出張で、極力日帰りをしていた経験から、さほど負担にならず、どんなに遅くなっても私の帰宅を待っていた。

12月14日の日本経済新聞の夕刊に、地方と都心の通勤は新幹線という記事によれば、介護や子育てから、新幹線での通勤を、企業や自治体が補助する傾向にあるそうだ。

別に私は、チョット観点が違うが、どうやら、故郷の地が、大変遠隔地という視点を、払拭したいという想いがあるからで、何とか、故郷の浅口市の素晴らしさを紹介したいからで、欲張らなければ、十分日帰りが可能である。

餅つき大会から、寄り道に逸れたが、つい思い切って出掛けたくなるのである。
でもでも、遠く東京から恐らく美味しい「笑顔もち」が出来上がっている様を、想像するのも却って想いが深まるのではないだろうか。




2019年

12月

18日

8 年のご無沙汰ですが

確か10月初旬に、背後から私の名前を呼んでいるのに気付き振り返ると、自転車に乗った女性に見覚えがあった。

その自転車の女性は、地元の地域包括支援センターのスタッフだった。
彼女は、私に認知症の家族会のカフェにまた、来て下さいとの誘いのリーフレットを渡して、未だ私が関わってきた家族がいるので「良かったら来て下さい、お待ちしてます」と言って、立ち去った。

手渡されたリーフレットが何故か気になっていたが、思い切って出掛けた。
さて、家族の会に関わったのは、何年前だっただろうと考えていた。
というのは、余りにも目的地迄の町並みの風景がスッカリ変わって、目標にしていた建物が、建築中だったり、テナントが入っていたり、地元にいながら、全くお上りさんである。

8年の空白が、こんなに世の中のスピードアップされている現実に驚きながら、目的地の地域包括支援センターに辿り着く。

確かに8年の空白があるが、道で出会う家族もあり、それ程に感じていなかったが、町の景色に時の長さを感じた次第である。

カフェのある部屋に入ると、確かに数名の顔見知りの家族が私を見て、懐かしそうに話し掛けてくる。
然も、当時の思い詰めた暗さは無く、笑顔で此れ迄の経緯を話してくれる。

8年前とは異なり、家族が非常に前向きでいるのは、恐らく認知症に対する考え方や、情報も多くなり、家族が学習しているのが分かる。

今年というか、また一つターニングポイントのチャンスだと私は想い始めていた。
終末期の方や家族の方から始まった私の病院ボランティアは、「話し相手」という活動が中心だっただけに、今、その必要性を失った私は、恐らく長く苦しみ、何度も感情のコントロールを試みたりしたが、限界を感じて、病院ボランティアに75歳を迎えるのを機に最終章の準備期間に入っている。

処が運良く、私はまた包括支援センターで、家族の方の「話し相手」が出来るという感触を掴めた。

自分から必死にピーアールしなくても、相手が招いてくれるという状況からのスタートは、とても心地良く純粋な気持ちになれる。

28年近く、母親の認知症の経験が、少しでも家族の方にヒントや笑顔になって欲しいという私の想いが新しく始まる。

2019年

12月

15日

1919年に思い出したこと

ある集まりで、1919年生まれの人は今年100歳になるということだ。

思わずその1919年という年に付いて、ある画家を瞬時に思い出した。
「悲しみよ こんにちは」という映画の最初のシーンに、その画家の作品が登場するのである。
その作家とは、神戸出身の洋画家で、版画家でもある「菅井汲」である。

菅井汲について、検索してみると「国際的に最も高く評価されている日本人画家の一人である」と紹介している。

早くに日本を離れ、フランスで創作活動をしているが、ある設計者から菅井汲のレリーフを製作したいので、菅井氏にコンタクトを取って欲しいとの依頼に、私は飛び上るほど驚きと嬉しさで、こんなラッキーな仕事が舞い込んでくるとはと、興奮状態が暫く続いた。

菅井汲氏と付き合いのある先輩であり、友人に相談したところに、東京に帰国中とか帰国の予定があるとの情報を得たのである。
かなり前のことなので、私の記憶もあやふやな箇所もあるが、菅井氏から快く承諾の返事が届いた。

菅井氏によれば、レリーフを大理石を使いたいという希望で、大理石の見本をフランス迄、航空便で送ることになった。
早速、希望の大理石の返事があり、レリーフの下絵も同封されていた。

間も無く帰国した菅井氏他、施主、設計者、私達は新幹線で岐阜羽島の大理石 の工場に出向いたのである。
菅井氏は既に準備されていた大理石に、何と着色を始めたのである。

大理石に、イギリス製のローニーの絵の具で、それは目も覚める様な鮮やかな赤色で、私は菅井氏の思い切った歯切れの良い作業に魅入っていた。

今、何度も故郷の岡山に帰郷する際に、岐阜羽島駅は通過してしまう為に、当時の菅井汲氏との縁を忘れていたが、偶然、1919年の話題から、懐かしい往時を思い出す機会を得たのである。

嘗ては25年美術の仕事をしていた私の歴史的仕事と言えると、今染み染み恵まれた仕事に、既に菅井汲氏は1996年に享年77歳で、亡くなられたので、作品と共に私の中で忘れてはいけないと想った。


2019年

12月

07日

最後のクリスマスツリー

今年も病院にクリスマスツリーを飾り付ける日が来た。
日頃の無機質な医療の現場に、七夕飾りとクリスマスツリーは社会の風を届ける上で欠かせない季節感を提供出来る点からも、ボランティアを導入している医療機関では師走と共にボランティアの大切なミッションとの言っても過言では無い。

凡そ32年の長きに亘って、クリスマスツリーを少なくとも二十数年、飾り付けて来たが、15年を活動して来た現在の病院を最終章として、病院ボランティアに区切りを付けたいと決心していた。

日頃活動日が異なるボランティアが、イベントを通して「ワンチーム」になる良い機会と、私は思っている。

実は、昨年のクリスマスツリーの日が数日前から、何とも言えない重苦しい気持ちが続き、既に解決していたと思っていた不愉快さがフラッシュバックした。
一年を経過しても、心の何処かに未だ傷が残っていたのだろうか。

此れまでに私は精神的に致命的な打撃を受けた経験が無いという恵まれた環境で過ごして来た所為もあり、物心がついて凡そ70年になって味わった初めての経験だった。

社会人になっても男性社会の職場で働いて来た為に、当時は男性の庇護の下で守られて来たという、私には居心地良く幸せな社会人だった。
然し、現在は、女性とも言えど、私には想像も付かない厳しい世界だと察するも、自己顕示を常に発信しなければならない現実に、私は体力的にギブアップだ。

その様な行為に至る迄には、それなりの問題点を抱えた上での、幾つもの経緯だあっての結果であるが、今更、私は説明をする気持ちはサラサラない。

約一年の時を経て、私に対する攻撃に近い行為は、周囲の人に理解されていると、確信出来たのは、幸せである。

ボランティア活動の最終章と心に納めて、今後も謙虚に悔いのない様に、一瞬でも病気の方の気持ちが安らげる様、退き際を見極めながら、努めたいと想っている。

昨年の初めての経験が、今、私を成長させたと捉える迄に心の余裕が出来ている自分に、決して無駄では無かったと想っている。

恐らく最後になるクリスマスツリーの飾り付けを通して、心穏やかに過ごせた満足感を噛み締めている。
病院ボランティアの最終章に相応しい日となった。

2019年

12月

01日

全くの偶然だろうか

今日から師走だが、私には「極月(きわまりづき)」の方が、緊張感があり、しっくりする。
昨日から、来年の2020年3月には、後期高齢者に仲間入りをするので、それ迄には未だ、物事の判断がストップしない内に、思い切って身辺整理を始めた。

友人から私を見ていると、年中整理、片ずけているイメージがあり、未だ残っているのが信じられないというが、実は、新聞の切抜きが凡そ3年間程、片っ端から封筒に入れたままの状態である。

いくつも切抜きで膨らんでいる封筒を目の前にして、此れまでの怠慢が悔やまれる。
今日から、苦手なエクセルにポチポチと入力を始めると、今迄の後悔の気持ちから
スイッチが入り、楽しくなって来るから不思議だ。

少なからずも開けっぴろげにブログにアップすると、挫折は恥ずかしいので、前進するのみである。
今日から極力新聞記事の切抜きは避けるから辞めて、即必要な記事は入力しようと決意した。

必要な記事を即座に処理する行為は、後回しすると加齢もあり忘れてしまうので、チョキチョキ切り抜いたが、読んだ時の新鮮さが失われ、後日文字化なんて先延ばしになるだけと、今回の封筒の山に、一代決心をしたのである。

その熱き発想を察してくれたかのように、12月1日の日本経済新聞の文化面に、先ず、タイトルに思わず、引き込まれた。
ノンフィクションライターの最相葉月氏による「母の最終講義が始まった」だ。

数年前に、私は拙著「笑顔の力」に病院ボランティアという活動を母親の入院先で知り、その後「母親からの宿題」として、約32年続けているが、ソロソロ母親から卒業証書を貰いたいと真剣に考え始めた。

最相氏によれば、「介護とそれに伴う諸問題で心身共に限界だった時期もあるが、不思議なことに最近は、母が身をもって私を鍛え、教育してくれているようになった」とある。
「さあ、いよいよ母の最終講義が始まった」と結んである。

まさに、32年前に病院ボランティアという全くの畑違いで、私の性格を知り尽くした母の宿題だったと、立場は違うが、私は、思わず、あまりの偶然さに驚くと共に、亡き母親からの答えというか、プレゼントに思えた。