2018年

7月

27日

批判することが生き甲斐ですか

正確さには欠けるが、竹内一郎氏の「人は見た目が9割」が発刊以来ベストセラーーになった記憶がある。
つまりは第1印象が大きく影響されると、私は理解している。私にも初対面で、私なりに感じるものがあった。
やはり、それはほぼ予想通りで変わらない状態が続いている。

長年の習慣で毎朝、日経新聞の朝刊の「春秋」欄を読むのが日課になっている。
偶然にも、私の疑問を紐解いてくれる内容が掲載されていた。

科学哲学が専門の戸田山和久氏が、筑摩書房の月刊誌に連載中の「飛び出せ教養」掲載されているものだ。
素晴らしい内容なので、紹介させていただくことをご容赦ください。

『「批判」というと、相手の主張をやっつけることだと思うかもしれないが、もっとも大切なもう一つの意味がある。自分の振る舞いが適切であるかどうかを省みることだ』
更に『自分の知性や理性を見極める作業のことも批判と呼ぶのだそうだ』(中略)
『くだいていえば、自分で自分の思考や言葉にツッコミを入れる批判精神こそ、「教養」なのだ』
と大学生に向けて書いているとのことだが、もう人生の収支決算をしなければならない私にとっても、奥行きの深い言葉だと、感銘を受けた。

この貴重な内容は、例え、現在社会人として優秀なキャリアの持ち主にも、「教養」が必要ではないだろうか。

私は、戸田山和久氏に今まで心に重く蟠っていたものから解放された。
相手にも一読を期待したいところだが。

2018年

7月

21日

テレビのない生活がスタート

いよいよ我が家はテレビのない生活が始まる。
朝のうちに、指定のリサイクル業者が引き取りに来るとのこと。

テレビの画像によるビジュアルの世界には、73歳と3ヶ月で完全に撤退する決心は、恐らく今後も耐えられると自分を信じている。

帰宅すると、無意識にテレビにスイッチを入れていた。かといって、テレビを前に大人しく見ているかといえば見ていない。
現在では、死語になっている「ながら族」なのだ。

テレビのあったスペースに、寂しさはなく、スッキリすらして、頭の疲労度が違う。
断捨離好きの私には、精神的に健康的かもしれない。
視力と聴力は、例え「ながら族」でも、気付かない内に働き続けていたに違いない。

テレビからの情報量がなくなっただけ、曾て丁寧に 目を通していた新聞の方が、私には相性が良い。
ワンショットの情報ではなく、周囲の記事まで視界に入り、思いがけない知識が増える楽しみが広がる。
またこの年齢になると、ゆっくり何度でも読み返せるし、パソコンで忘れがちな活字に接する機会が増えた。

気のせいか、頭が少し軽くなって、整理するにも弾みが付きそうだ。


2018年

7月

06日

「晴れの国 おかやま」が「大雨の国」

何となく目が冴えて寝付けない日々が続いていた。
理由は故郷に帰る前の気持ちがいつもより、昂ぶって いた先月6月8日の夕食の準備をしている時だ。
濡れ手でもあり、宅急便と思い、マンションのロックを解錠した。

ドアを開けると、NHKの外部嘱託員だった。
突然、切り出したのは、私のマンション全てが、衛星放送対象に該当しているが、私は申請をしていないという。
私は全く及びも付かないというか、転居してかなりの年数だが全く無関係、無知に他ならない。
担当者に、当マンションの住人は全て契約済みなのか、確認したが、一方的に規則というだけであった。

否応無く、集合住宅は衛星放送の対象のある場合は、該当するという。
それならば、個人邸についての質問には、だんまりを決め込む。

30分程のやり取りをしても、天下のNHKを相手にしても規則という建前論一方で引き退がらない。
つい、根負けというか、空腹もあり、面倒になり、承諾のサインをした。

請求金額を見て、一度も衛星放送を見た記憶がないことに気付いた私は無性に怒りが込み上げてきた。
自分の愚かさを許せない反面、嫌悪感が消えない私は、テレビを廃棄することにした。

手続きが済むまではと、テレビを付けた7月6日の深夜に我が故郷の「晴れの国 おかやま」地方にこれまでに経験したことのない大雨特別警報のニュースが流れていた。
しかも刻々と事態の深刻さがテレビの画面から伝わってくる。

先月のあの晴れ渡った故郷の空は、直ぐ母校の小学校の近くにある、今は雑草に覆われた池は、春は桜並木が続く川はと、思わぬ記憶が蘇ってきた。

テレビの廃棄日が決まるまで、私は天気予報に敏感な毎日を過ごす。

2018年

7月

03日

「きよきよしい」と「清々しい」

外出先で、類にもれず私も時間があると、ついスマホのスマートニュースをタッチしている。
画面には、7月3日のHUFFPOSTの記事が掲載されていた。
サッカーに関心がなかった私ですら、ロシアワールドカップの世界ランキング3位のベルギー戦の勝敗は気になっていた。
結果後のFIAのジェネラルディレクターのプリシラ・ジェンキンス氏の記事に 思わず胸が熱くなった。
記載されて記事によれば、ベルギー戦を終えた日本選手のロッカーが綺麗に掃除されていた。
写真も掲載されている限りでは、日本語に「まるで舐めるほどに」という粗末な表現であるが、私の年齢から容赦いただきたい。
どこもかしこもピカピカに磨かれている。
更に記事はこれで終わることなく、ロシア語で「スパーシーバ(ありがとう)」という感謝のメッセージの紙が残されたとある。
「立つ鳥跡を濁さず」という言葉が浮かんだ。日本人選手は試合には敗れたものの、選手たちの素晴らしい行為に私は日本人として誇りに思った。

日本では自動ドアの発達で、公共的な場所で自分でドアを閉める習慣がなくなりつつある。
それと同じように、自分が座った椅子を元に戻すという習慣も同様である。
立場上、次の利用者の為に、きちんと元に戻すことが当たり前として私には最早や限界で、内心は腹立たしさを拭い切れないでいる。

それ故に、このニュースは私の心に強く響いた。
本田圭佑が試合後の一連の心境を「きよきよしい」と表現した。メディアはすぐ挙げ足を取っていたが、「清々しい」ではインパクトに欠け、私の心には「きよきよしい」が強く残る言葉だ。