手の記憶

日本経済新聞の夕刊に毎日、「あすへの話題」という各界で活躍する人によるコラム欄がある。

 

毎日、私は日曜日を除いて、連載を楽しみに拝読している。

今日の夕刊に小説家の松浦久輝氏の「心を手渡す」というタイトルの心」という活字の登場に思わず、関心を持ってしまう。

 

氏によれば、見知らぬオーストリア人から、お手紙があり、それに対して後に航空便で、お礼の手紙が届いたという。

 

今のご時世、メールでのやりとりで済むところ、手紙という手間がかかる方法で繰られてきたことについて、松浦久輝氏は『「手紙」や「手間」が含まれる一字、つまり「手」の記憶が、電子コミュニケーションにはない。わたしたちを現実世界に繫ぎ留めている「手」の触覚性の豊かさを、「手渡される」心の温もりを大切にしたいとつくづく思う』と。

 

実は、既にセピア色になってしまい、唯、記憶に残っているのは、やはり

日本経済新聞のプロムナード欄に、「手がさびしい」といったタイトルだったと想うのだが、ある年配の女性が、最近手間暇を使ってする作業が少なく成り、手が寂しいといった内容であった。

 

さらに、私が美術の仕事をしている時に、設計事務所のインテリア担当者から「手わざの作品が欲しい」との依頼を受けた記憶がある。

日本の草木を和紙に流し込んでいる作家を思い出し、お陰様で、某企業の

研修所に治まっている。

 

メールも、パソコンに打ち込む際には手というか、指を使うが、そのプロセスの段階で、「手」を使うことにより、活字に相手の「心」を感じるという事だろうかと、些か、難しくなってしまった。

 

メールで送信されてきたものは、メールで返信するが、多様性のある形で

肉筆による手紙を書きたいと想っている。