肉筆の感覚に手応え

筆記用具もお気に入りを求め、今年は肉筆に励むとの意思は、脆くも宣言だけに終わること、7か月。

 

とうとう、肉筆にしかできない整理を残し、これまた、お気に入りのノートを求め、もう、実行する以外にないところまで追い込まれた。

 

7月末から始めた当初はぎこちなく、ともすれば、パソコンに慣れてしまった長年のリズムが、肉筆になると、何ともぎこちなかったが、負けてなるものかと、今日で、一週間を経て、忘却の彼方に置き去りにしていた肉筆の感覚の手応えを久しぶりに取り戻すことができた。

 

生来のせっかちさが災いしてか、ともすれば、書くスピードが速くなると

字画が多い漢字を、面倒になって誤魔化してしまうというも情けない行動に走ってしまう。

 

小学校時代に、日曜日の午後は、数人の友達と習字教室に、木製の硯箱を自転車に積んで通っていた。

 

自転車を降りると、先ずは、硯を取り出し、私は、硯に墨をする時の墨の匂いが好きで、いざ、練習文字が示されると、嗚呼、今日も、先生から

朱で訂正されるとき、決まって、「マリちゃん、落ち着いて、ゆっくりと

筆を運ばんと、早すぎるんじゃ」と。

 

現在は、ボールペンを使用しているが、確かに、落ち着いて、ゆっくり、

向き合うと、誤字も誤魔化しもなく、抵抗なく進むとわかった。

 

お陰様で、当初痛みを覚えていた「ペン胼胝」も抵抗力をつけてくれた。

 

熱中症アラートや、猛署やゲリラ豪雨を避けるには、肉筆整理に徹するのも、「新しい生活スタイル」として良きことと想っている。