安心・安全の優先順位

明日で、東京オリンピックは残すところ、一か月となる。

 

批判ではなく、「安心・安全」あるいは「安全・安心」という表現を国民に向かって発信しているが、私は、常々、疑問視してきた。

 

オリンピックを開催するにあたって、「安心」と「安全」について、すべてに関わる人に対して、どちらが優先順位を持つ表現、言葉だろうかと、ず~と気になっていた。

 

愛用する時代物の辞書によれば、「安全」は即、反対語として「危険」という言葉で明確に処理、追って「危ない」こととある。

 

一方の「安心」は心に心配がなく、安らかなことと明記されている。

 

そこで、私は、まずは「危険」を排除する「安全」に始まることによって、初めて「安心」を得るのではないだろうかと想うのである。

 

既に、耳にタコができるほど「安心・安全」或いは「安全・安心」のどちらにしても、東京オリンピックは、行われることは明白である。

 

「自助・共助・公助」と、言われて、いつの間にか、この言葉の存在感も薄くなっているように思われる。

 

自然災害の際には、やたらに使用されてきたが、このコロナもある種の災害、人災という人もいるが、今回も一種の災害、人災ではないだろうか。

 

然し、ワクチン接種の力に望みを託すしかないのが、残念ながら、現状段階では方策がないのである。

 

科学者やノーベル賞受賞者の警告にも、ある意味で取り上げない、何といっても東京オリンピックありき何である。

 

確かにアスリートの努力には、何とかして、滲ましい努力をしてきただけの成果を実らせてあげたいという気持ちは、私にさえ理解できるのだが。

 

つまり、ワクチンの予防接種に一縷の望みに賭けるという「自助」努力しか残されていないのである。