手帳とボールペン

昨日、私はスイッチを入れると、大見得というか、公然とブログ上で約束をした。

 

これまでであれば、昨年中に新しい年の予定等々を手帳に書きこんでいたが、私は、今日から書き込もうと予定している。

 

長年愛用していた手帳も、今年から変わったこともあり、ちょっと慎重にとの考えと、久しぶりに今年の手帳から、大学を卒業した卒業祝いにと父からのパーカーのボールペンを使って。

実は、このボールペンには父親の拘りで、ボールペンの芯は「ブルーブラック」で、私は長年そのボールペンを使っていたが、この芯の色が後に、私を戸惑わせる結果に。

 

なぜか、正式にはあらゆる手続き上では、「黒」の芯を使わなければならなくなった。

然し何か味気ないというか、私は、黒の芯に父からのボールペンの芯を

取り替えるのに抵抗感があり、別途ボールペンを求め、使い分けていた。

 

今年からの手帳の芯を黒にするか、ブルーブラックにするかの迷いもあり、昨年に「黒」の芯を求めていたが、書き込むに何と今日まで躊躇していた経緯もある。

 

既に今年もスタートして6日にして、私は新しい手帳には、黒のみで、書き込むことの決心がついた。

理由は、今年の手帳からは、書き込む内容が、恐らく、病院の診察日が多くなり、これまでの社会との関りがなくなるからだ。

 

75歳も残すところ、3か月を切り、76歳が待っている。

やがて、肉筆重視の私の「新しい生活様式」が始まるスタートが手帳からになり、元日の文藝春秋の『活字の中に「人間」がいる』というフレーズを、ある意味で、デジタル終活を視野に入れている私の背中を押してくれた想いがある。

 

昨年末に、ある人から私はブログには向いてないという印籠を渡されていただけに、間もなくホームページも3月末で終了するつもりでいる。

今、私は指摘されたブログについて、言いにくいことをさらりと言いのけた人に感謝の気持ちをもっている。

 

やがて、新たに好きな活字を肉筆で、久しぶりのボールペンと共に楽しみながら、懐かしい「筆まめ」ができるであろう痛さも、納得できる。

 

終息の見えないコロナ禍の中で、まるで、世間の常識から外れた生活スタイルかもしれないが、私には、どうやら、オーソドックスというか、アナログの方が心身共に生きやすいとの想いからである。