ナイチンゲールの日に想う

今日5月12日はナイチンゲールの日である。

ナイチンゲールの「看護覚え書」の中に、「患者は(中略)たった一人でもよいから、なんでも自分の思っていることを、率直に話せる相手がいてくれたら、どんなに有難いことだろうと思っているのである」という一節を思い出す。

私は、この言葉を、病気の方に接する時には、必ず心に留めて来たが、今新型コロナウイルスによって、感染予防服に身を包んで、接する医療の在り様が変わったと私は推察している。

ナイチンゲールは不安な病気の方に、今で言うところの呼び鈴を取り付け、直ぐに駆けつけられる方法を考えたと聞いている。

病院ボランティア活動中に、、病院にいても一人、自宅でも一人と言った方の話し相手をして来た私は、自分が父親に言わせると「病気の問屋」とまで言われる程に、学校よりお医者さんに通う方が多い小学校3年生まで私の日常生活だった。

その経験が、今、この新型コロナウイルスで、行動制限の「三密」の日々は、私には自分の病気で、小学校の思い出で、友だちと思い切り遊んだ記憶は高学年になって、何とか健康状態もそこそこ元気になって、初めて仲間との楽しさを知った。

新型コロナウイルスと闘っている方の不安な気持ちを恐らく、言葉にも発する機会も遮断されているのでは無いだろうかと思うと、どんなにか恐怖や苦しさにも寄り添えない恐ろしい新型コロナウイルスに、無能でしか無い私は、微かだが、猩紅熱の時の4歳にして「死」を意識した記憶は今も鮮明に覚えている。

かかりつけ医の先生が看護婦さんと終夜、私から目を離せない程の危険水域が、もっともっと進化した今回の見えないコロナと重なっている。

もし、今、ナイチンゲールがいたらどの様な看護を教示してくれるだろうかと想いを馳せたナイチンゲールの日だった。