全くの偶然だろうか

今日から師走だが、私には「極月(きわまりづき)」の方が、緊張感があり、しっくりする。
昨日から、来年の2020年3月には、後期高齢者に仲間入りをするので、それ迄には未だ、物事の判断がストップしない内に、思い切って身辺整理を始めた。

友人から私を見ていると、年中整理、片ずけているイメージがあり、未だ残っているのが信じられないというが、実は、新聞の切抜きが凡そ3年間程、片っ端から封筒に入れたままの状態である。

いくつも切抜きで膨らんでいる封筒を目の前にして、此れまでの怠慢が悔やまれる。
今日から、苦手なエクセルにポチポチと入力を始めると、今迄の後悔の気持ちから
スイッチが入り、楽しくなって来るから不思議だ。

少なからずも開けっぴろげにブログにアップすると、挫折は恥ずかしいので、前進するのみである。
今日から極力新聞記事の切抜きは避けるから辞めて、即必要な記事は入力しようと決意した。

必要な記事を即座に処理する行為は、後回しすると加齢もあり忘れてしまうので、チョキチョキ切り抜いたが、読んだ時の新鮮さが失われ、後日文字化なんて先延ばしになるだけと、今回の封筒の山に、一代決心をしたのである。

その熱き発想を察してくれたかのように、12月1日の日本経済新聞の文化面に、先ず、タイトルに思わず、引き込まれた。
ノンフィクションライターの最相葉月氏による「母の最終講義が始まった」だ。

数年前に、私は拙著「笑顔の力」に病院ボランティアという活動を母親の入院先で知り、その後「母親からの宿題」として、約32年続けているが、ソロソロ母親から卒業証書を貰いたいと真剣に考え始めた。

最相氏によれば、「介護とそれに伴う諸問題で心身共に限界だった時期もあるが、不思議なことに最近は、母が身をもって私を鍛え、教育してくれているようになった」とある。
「さあ、いよいよ母の最終講義が始まった」と結んである。

まさに、32年前に病院ボランティアという全くの畑違いで、私の性格を知り尽くした母の宿題だったと、立場は違うが、私は、思わず、あまりの偶然さに驚くと共に、亡き母親からの答えというか、プレゼントに思えた。