9月30日に想う

今朝、何年も頼りにしていた目覚まし時計が、電池を取り替えたり、凡ゆる努力を試みるが頑として時を刻まなくなった。
その時、曾てこのブログでも触れたが、不思議に目の前の物事がひと段落付くと、私の気持ちが反映されれるかの如く、丁度ボールペンの芯が切れる、伝票が、ノートがと言った具合に符合するのである。

昨夜、2019年も明日9月30日で四分の三が終わるが、何とこの9カ月は私にとっては、とても貴重で濃密であったか想いが忙しく頭の中を駆け巡っていた。

確かに、自分でも心身共に、故郷には此れまでのボランティアとは違う充実感がある。
意識していないが、友人、知人から「良い顔してるわね」「生き生きしてるわね」と。

既に私の中では、病院ボランティアについては結論が出ている。
もうやり切ったという想いでいる。
「立つ鳥跡を濁さず」の様に、スマートな活動の終活をしたいとの想いを持っている。

優先順位が凡そ31年近くライワークだった病院ボランティアではなくなったという事である。
昨年末から、私の心は疲弊し切っていた処に、母校の小学校から届いた思い掛けない封書にヅタヅタになり掛けていた私を救ってくれた。

既に、実家は無くなっているが、「ふるさとはいつでも待っています」という母校の小学校の優しく温かく丸ごと包み込みんでくれ続けたお蔭で、私はこれまで必死に自分の中に押し込めていた苦しさから開放され、生き甲斐を見出したのである。

今月中旬に二病息災になったが、これもターニングポイントには敢えて私に必要だったのだと思える。
全ては、次なる目標が待っている為には、目紛しい変化は決して無駄ではなく、貴重な時を過ごしているのだと想う。