私が想う「ボランティア」

毎年、1995年の「阪神淡路大震災」の前後に、薬学部の3年生を対象に「医療ボランティア実習」の講義を務めている。

日本にとって、「ボランティア」が根付いた契機が、残念ながら多くの犠牲者を出した「阪神淡路大震災」から、初めてと言っても過言ではなく「ボランティア」の存在がインプットされたのである。
と同時に「心のケア」の必要性を認識された年でもある。
自然災害を通して、日本は1995年が「ボランティア」と「心のケア」の元年と言われる。
その後、東日本大震災には多くのボランティアの参加に至り、近年の異常気象による災害に、ボランティアの力が必須な存在に育ってきた。
ところで、私はボランティアの中でも「病院ボランティア」が始まりで、仮設住宅に「心のケア」という立場で関わった経験も持ってはいるが、私の場合はボランティアでも「病院ボランティア」である。
約、30年近く関わってきたことには、自分でも驚いている。
然も、「ボランティア」は自ら思い付き、自発的な意味を持っているが、私は母親の入院先で、同室の方に「湯冷まし」をして差し上げていた場面に、当時は看護婦長さんから「病院ボランティア」の依頼に至っただけである。
恥ずかしい話ですが、「病院ボランティア」という言葉も何も皆目知らなかった次第である。
今想うことはこの「湯冷まし」にボランティアの原点があると思っている。
何気なく、相手の気持ちを察し、相手を思い遣る「優しさ」をさり気なく自然体でするものではないか。
医療者とは異なった、ボランティアならでの素朴な「優しさ」の心を言葉であったり、行動であったり、臨機応変に病気の方に向き合うことだと想うだが。
病院ボランティアも時代の流れを感じる昨今ですが、私は「優しさ」こそ、ボランティアにとっては真髄と想う今日この頃である。